村上が翻訳したからチャンドラーを読むのではない、チャンドラーの新訳をするような人物だから村上を読むのだ。
と、書こうと思ったら字数制限。
「私は初対面の人に会うと、十分間しゃべってもらうことにするの。そして相手のしゃべった内容とは正反対の観点から相手を捉えることにしてるの。こういうのって間違っていると思う?」
「いや」と言って僕は首を振った。「たぶん君のやり方が正しいんだと思う」
(中略)
「つまり、あなたの人生が退屈なんじゃなくて、退屈な人生を求めているのがあなたじゃないかってね。それは間違ってる?」
「君の言うとおりかもしれない。僕の人生が退屈なんじゃなくて、僕が退屈な人生を求めてるのかもしれない。でも結果は同じさ。どちらにしても僕は既にそれを手に入れているんだ。みんなは退屈さから逃げ出そうとしているけれど、僕は退屈さに入り込もうとしている、まるでラッシュ・アワーを逆方向に行くみたいにさ。だから僕の人生が退屈になったからって文句なんて言わない。女房が逃げだす程度のものさ。」
(村上春樹、『羊をめぐる冒険(上)』、講談社文庫、2006年第5刷、69-70頁)
すばらしい。
この女の子が用いているのは「AがBであるのではなく、BであるからAなのだ」という、マルクス老師が十八番とした修辞法である。
決まるとちょーかっこいい。
いや、村上さんの場合はたぶんJ・F・ケネディだろう。
「私がみなさんに求めるのは、国家があなたのために何をしてくれるかと訊ねることではありません。そうではなく、反対にあなたが、国家のために何ができるかと考えることなのです」
演説の全文は知らないんだけど(ジョン、ごめんね)この聴かせどころはぼくでさえそらんじている。
1970年の夏、鼠はそのケネディのコイン・ネックレスを首から提げていたのだった。
ところで、「僕」は(例の耳の)女の子の問いかけに対して「いや、そのどちらにせよ、」と答えている。
結局のところ、自分は退屈な人生を手にしている。
そして、経緯がどうだったかはともかくも、今、そこから抜け出そうとはせずに腰を落ち着けている。
だから文句は言わないんだ、と。
奥さんが出て行ったとしてもそれは彼女の問題なのであって、スリップの一枚くらい残していってくれてもよさそうなものなのに、なんて「僕」はぜんぜん言わないのだ。
でもなんやかや言っても「僕」は(耳の)女の子と食事にこぎつけて、普段の彼女がどれほどぱっとしない普通の女の子であったとしても、「半月分の食費がとんでしまいそう」なフランス料理の食事代程度の出費で「仕事を休んでベッドの中で彼女の髪をいじりながら、ずっと鯨のペニスのことを考えてい」ることになる。
まったく、参ったね。
やがて仕事の相棒から電話がかかってくる。
「どうせ羊の話だろう」とためしに僕は言ってみた。言うべきではなかったのだ。受話器が氷河のように冷たくなった。
「なぜ知ってるんだ?」と相棒が言った。
とにかく、そのようにして羊をめぐる冒険が始まった。
(同上、81頁)