AKBあるよね。うん、流行ってる。
あれは「アイドル」なんだろうか。
前もちょっと書いたんだけど、アイドルっていうのは非常に「内テレビ的」な
概念だったと思うんだよね。
秋元さん曰く、おニャン子クラブがテレビに、AKBがネットに、
それぞれ対応するのだそう。
じゃあ、端的にそれはもう「アイドル」とは別の何かなのではないか。
「アイドルとは別の何か」については後述します。
で、AKBには秋元康さんが一応仕掛け人としているわけじゃないですか。
ぼくたちからは秋元さんが「知っている主体」として想定されている。
じゃあ秋元さんには何か、これから先のアイドル、というかもう少し
ぼかして「タレント」くらいに言っておきましょう、そのかたちが見えてるのか。
そんなことはないと思うんですよね。
今や、プロデューサーっていっても、私たちには知らない何かを知って
いるわけじゃないことは、明らかではないかとおもいます。
孫正義さんも、柳井正さんも、同じようなすごさ、に見えちゃうんだけどさ、
たぶん何かを知っているからすごいのではないんだと思う。
彼らがすごいのは、知っているから、成功しているんじゃないんだと
思うんです。何か一般人が知りえない、天上の、秘奥の、真なるものに
アクセスしているから成功してるんじゃないんです。
彼らにも、何にもわかりはしない。
にもかかわらず「ことを為している」からすごいんです。
だからプロデューサーというのはやっぱり相対的なものにすぎません。
で、AKB48とは何なのか。
「等身大の女の子なんですぅ」っていうね、まあいいけどさ。
これはある種、アイドルという運動の一回の価値を限りなく落として
いるんだと思います。
アイドルってどういうことだったかというと、
すごい純粋無垢なイメージ、非俗な存在として、祭り上げるような
提供をしていたわけですよね。
あ、あの子はやっぱり違うんだ。「君こそスターだ!」
だからこそ、「普通の女の子に戻りたい」となるわけで。
そして、アイドルとしての生命は、「醒め」たら終わりだった。
「なんだよ、普通の子と変わらないじゃん」って言われたら、
そこまでだった。
「醒め」の代償は象徴的な「王殺し」ではないか。
アイドル/カリスマは宗教王なのだと思いついた。それは不可能なものの代表象であり、「醒め」が回帰する度にその身体の死が要求される。
ぼくは90年生まれなのでぜんぜんわかんないんですけど、
山口百恵さんの「さよならの向こう側」に何かヒントがあるんじゃないかと
思って、聴いてます。
アイドルとは、「不変」への期待と、その裏切りによる幻滅の
一連の過程のことじゃないかと思います。
それで、一回だけの期待と幻滅ならいいんです。
ではさらに幻滅した後に、じゃあその代わりに、ということで別の
アイドルに期待したらどうなるか。
(例えば山口百恵から松田聖子へ。きみは疚しくなかったか?)
幻滅する為に期待する、及び期待するために幻滅する、ということに
なっていく。
その回転が加速して、ファン投票による得点づけまで導入されている
のが、あるいは幻滅と転移の舞台裏を見切れさせているのが、
AKB48ではないか。
そして、これって、資本主義と同構造ではありませんか?
投資のために稼ぐ。内容は省みられずに、持続の構造、構造の持続
それ自体が欲望される。
そうすると、大澤真幸さんの論考で、「サッカーにおける「資本主義の
精神」」ってのがあるんです。
高校の現代文の教科書に書き下ろされたものなので、言ってくれたら
貸しますけども。(東京書籍の精選現代文です)
これが何かを教えてくれそう。
ほらね、サッカーとアイドルが繋がった。
アイドルについてぼくが考えているのは、何かしら政治を動かせないか、
ということです。
ちょっと違うんだけれど、東さんも面白いことを話してます。
□ASCII.jp:もはや初音ミクに投票すべき! ネット時代の政治論
http://ascii.jp/elem/000/000/523/523868/
この発想と違うのは、どうも「アイドル」には身体が必要だ、ということです。
身体がなけりゃ説得力なんてない。
レヴィ=ストロースの言う「真正な社会」には、「顔」が必要ですからね。
ここは吉本隆明に通ずるところがあるかな、と思います。
「暴力の解発」というのは、身体ではなくむしろ脳で行われるのだということ
があります。だから、ディアレクティケーでもよいのだけれど、そこには身体
が介在していなければならないと思います。
イメージと身体の衝突、あるいはすれ違いというテーマは、
アイドルから別の対象にも移して考えてみましょう。