みぜにをきって・のってみる | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

あ、そうそう。さっき言いかけたことだけどさ、

なんかあのー、こないだご近所でアマ小説書いてみませんか、

みたいなイベントが不発してたような気がするんだけどさ、

いや、ごめん、蒸し返してみるよ。


ちょっとやりてえな、みたいな気がする。


えーと。なるほどたしかに、現時点のぼくには「小説を書く技術」

がない。

だから書けない。


んだけど、「小説を書く技術」みたいなものって、書くという経験その

内のなかに、なぜか身についてくるような事態だとおもうんだよ。


書けないのに書かないと書けるようにならない。


そういうドクサの破れ目(パラ-ドクサ)として、「小説」という運動も

またあるのではないか。


なんてね。


で、そういう「上部構造」、いや、「ゆるふわ」じゃあ埒がアカン!


そいでどうゆーことをしたいのかって言ったらさ、

ぼくは「映画制作みたいな小説書き」っていうこともありうるんじゃないか。


いや、無理かもしれないけど、ん、それはもう小説ではないのかも

しれないのだけれど、でもどうかな。あってもいい。


ぼくは、小説世界内で誰がどうしたとか、そういうことには今は

ぜんぜん興味がない。

誰と誰がくっつこうが、誰が誰を私怨でサツガイしようが、

そんなのって「あるある」。


ぼくが知りたいのはだね、そうやって反復される「終らない日常」の

端々にその姿を見せる、どこかでみたような「構造」。


そういう「人間知」に興味がある。


で、そういうことをぼーっと思いながら、また「映画制作のような」

「共同的/協働的」「小説執筆」ってどんなか。


まあなんとなくなんだけどね。

いや、それが「アマ」の逃げであり、なんつーの、免罪符みたいな。

なんとなくでいいんだよ。って、ぼくはそりゃ言うわな。


ぼくが興味あるのは「構造」だけって書いたよね。

だから、登場人物のキャラクターであるとか、嗜癖であるとか、

あるいは誰が生きて誰が死ぬのか、

またまた、スペクタキュラーな「見せ場」をどうデザインするか、

とか、そういう部分は、みなさんに丸投げ、じゃなかった、

「読者の主体的参画」に委ねたい。


なんてね。(にどめ、にどらん、にどりーの、にどきんぐ)


それで、構造のほかにも、ぼくもやはり一読者として一般に小説の

「要素」とされるもののデザインに参加したいのだけれど、

ぼくが読みたいのはだね、

やはりなんといっても「化かし合い」。


「化かし合い」をベースに据えれば構造も配置しやすいとおもうしね。


で、構造構造ってなんですのん、ってそろそろみなさんもお怒りでしょうが

(勉三さんではありません)


ちょっと説明がややこしいので、

化かされたとき、あるいはまた化かそうとしたとき、人間のうろたえとか

焦りとか、そういうものが表れてくると思うのだけれど、

そういう「自ずからなる」「人間くささ」を明に暗に規定する条件のこと、

と、ここでは簡単に定義しておこう。



あ、そうそう、ぼくたちは「エンタテイメント」の意味合いを、ひとつ次数を

上げて扱うのだった。

だから、「いつものように」三日坊主になったらなったで、そういう「またか」

という、「日常の再承認」として享受されて行くことになる。

すごいだろ。救いがなくて。


だからこれはある種、「不敗」なのである。



ま、しょうゆーことでー。