ここでは、『けいおん!!』を語ることがなぜ社会を語ることになるのか
を説明したいと思います。
『論語』に見えます通り、孔子は樊遅(はんち)という弟子に「知性とは
何か」と問われて、次のように答えました。
「敬鬼神而遠之」。鬼神を敬して之れを遠ざく。
「可謂可矣」。知というべし。
知的な態度というのはどういうものか。それは、「鬼神」には敬意を
もってこれに接し、簡単に近づけないものである。
新しく自動車の免許を取得した人は、慣れてきた頃に一番事故を
起こしやすい、とよく聞きますね。
あるいは、かのチャールズ・ダーウィンは、自説にとって「都合の悪い」
事例に出会ったとき、それを必ずメモに残すことを自らに課していま
した。それは、天才の頭脳をもってしても、「自分に都合の悪い話」を
記憶しておくことが困難であるということを示しています。
「私にはわかる」、「私だけは大丈夫だ」、「私は間違っていない」。
見たくないから見ない、見ても言わない、言っても聞かない。
こうして人間は不幸に出会うことになります。
これは、ぼくには知性から最も遠いふるまいであるように見えます。
孔子の説く知とは、「よくわからないもの」を「よくわからないもの」として
拝接せよ、ということだとぼくは考えます。
「鬼神」とは、「つのつの一本赤鬼どん」というような具体的な「不善」では
ありません。
「鬼神」というのは「よくわからない」、「力のあるもの」のことです。
世にある「よくわからないもの」には「力のないもの」と「力のあるもの」
とがあるはずですが、いま私の目の前にある「よくわからないもの」が
どちらであるかは、よくわかりません。だって、評価ができないから
それが「よくわからないもの」なわけですからね。
ほんとうは「よくわからないもの」なのに「わかったつもり」になるのが
一番危ない。「よくわからないもの」の中には「力のあるもの」もある、
それを認めなさい、と孔子は仰っているのだと思います。
人間は「自分の知らないもの」を「つまらないどうでもいいもの」だと
考えがちです。
たとえば、ぼくの場合は「煙草」がそれにあたります。
ぼくは「煙草」なんてほんとうにつまらない、そんなものはみんななく
してしまえばいいのだ、と考えているところがあります。
でも、こういう態度は大変に危険です。
ぼくがそれを知らないことはそれがつまらないものであることを意味
しないのです。
「煙草」は、それを愛する人たちがたくさんいます。
ですから、「嫌煙権」の御旗のもとに、「実質的全面禁煙化」を推進する
ことは危ない。あんまり圧政を敷くと「喫煙」レジスタンスがクーデタを
起こすかもしれません。
そのリスクを考えれば、ぼくであればたとえば月々のおこづかいが100円
減ってもほんとうの「分煙」を推進することに賛同します。
この「煙草」の部分にはいろんなものが入ります。
「ゴルフクラブ」であり、「ブランドバッグ」であり、「BL」であり、「ルーズ・
ソックス」であり、「競馬」であり、「ヨン様」であり、「ハバネロ」であり、
「花中」であり、「囲碁」であり、「AKB48」であり、「矢島美容室」であり、
「けいおん!!」なのです。
社会について語るときには、「みんなが知っているもの」よりも「みんなが
知らないもの」について語るほうがより有効であり、「力のないもの」よりも
「力のあるもの」について語るほうがより有効であると思います。
「みんなが知らないもの」とは、「好き嫌い」がはっきりでるものであり、
「世代」がはっきりでるものです。
「けいおん!!」なんて何がおもしろいの?という言葉をよく目にするから
「よくわからないもの」であり、
主題歌CDのオリコンデイリーランキングが1位2位だったのを見て、
「(少なくとも市場では)力のあるもの」なんだな、と思ったので、
これは「鬼神」だと、ぼくは考えたのです。
『けいおん!!』敬して之を遠ざく、知と謂うべし。