ここでは「子ども」のやり方で「子ども」と交渉するとは
どういうことなのか、どうありうべきなのかを考えたい。
ぼくはできれば大人になりたいと思っている。
立派でなくてもしかたないけど、とりあえずなんとか
大人になりたい。
大人になるとはどういうことか。
例えば、宮崎駿監督における大人の条件とは、
「子どもの味方であること」、「余計なことをぐちぐち言わないこと」、
「よく働くこと」の3つではないか、と以前書いた。
(□「努力」を巡って、補考。
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10516264579.html )
今回問題となっているのはこの内の「子どもの味方であること」と
いう条件だ。
では、それは子どもに媚びたらいいのかと言ったらそれは違う。
そんな卑怯なオトナなんかに子どもたちは用がないだろう。子どもを
子どもだと思ってバカにしていては友だちになってもらえないのだ。
ここで参考になるのが反対方向に極端な哲学者ニーチェである。
ニーチェは「人間的な価値」はみんなバカにしている。
ここでの「人間」というのは「社会の立派な構成員」としての、「正常」で
「清潔」で「健全」で「道徳的」ないわゆる「オトナ」という奴である。
身のこなしにそつなく、ピシッとしたダークブルーのスーツに清潔な白い
シャツ、落ち着いた色合いのネクタイに、袖から少しのぞく高級そうな
腕時計、上品な香水の香り…。
それは一見、立派な紳士のようであるが、子どもたちにそんなまやかしは
通用しない。彼らが直観的に嘘だ、と感じたならまるで信じてもらえない
のである。
反対に、ニーチェが称揚した「貴族」というのは、自分自身に満足している
ような存在である。それはそれで結構問題があるけれども、ここでは考えて
いく道具立てとして悪くない。その、「自分自身に満足しているような存在」の
一典型が「子ども」なのである。社会において権力や財をみんな抱え込んで
しまう「オトナ的なもの」に対して抵抗点となる周縁的な存在をピックアップ
してみよう(こういう思考の仕方はいささか古めかしいけれども、ありふれて
いるおかげで話はわかりやすくなる)。
それは例えば、子ども、老人、病人、宗教者なんかである。
そして、特に「死者」。
ほんとうの意味で子どもにとって一番の味方になってくれるのは死者で
ある。バカ言え、死んだ人が力を貸せるわけないじゃないか、と君は思う
かも知れない。でも、できるのだ。
一般に、多数決とは投票をして、そこで一番票を集めた案であり候補者が
選ばれる意思決定プロセスのことだ。
その選挙の結果には一定の強制力が賦活され、自ら運動を始めていくこと
になるわけだが、ではここに「死者」を加えたらどうか。
子どもが大人に対して、「古来、本邦では○○って習慣でやってきたん
だぜ、たかだか数十年たまさか維持されたにすぎない「通例」なんかより
も、よほどそっちを重視優先すべきだと思うけどなあ」と言えばいいのだ。
ある一つの「現在の社会制度」の内部に属する人間の考えというものは、
少なからず時代性というバイアスがかかっている。そんな「当たり前のやり
方」とは、歴史的、地理的に限定された「民族誌的奇習」に過ぎないことを
みな忘れている。だから、それに対して「ラディカル(=根源的)」であること
が力を持ちうるのだ。
ここでは、死者=歴史こそが、子どもの依拠すべきレフェランスだろう。
少し話が逸れた。
ここでは(たとえば死者と共にある)周縁的、あるいは聖的な存在としての
「子ども」を相手にするとき交渉は一筋縄ではいかないのだということを確認
しておきたかったのである。
確かに子どもは知識の点においては大人に劣るだろう。
でもその分目が澄んでいるということもありうる。
「ほら、坊や、飴玉をあげるから、DS/PSPをあげるから、おとなしくしていな
さい」と言っても、「ちがうぜ」と一蹴されてしまうのである。
思うに、そこには知識によらない倫理なのか、善なのか、名前はよくわから
ないが筋の通し方であり、ふるまい方があるのだ。
ぼくは現在の学校教育制度では知識に大変重きが置かれているという認識
なのだけれど、「知識が大事なのだ」ということが念頭にあると、得てして
「子どものやり方」を見失いがちではないか。
真の意味で子どもの味方になる、というとき必要なのは、広く、できるだけ
多くの子どもに意見を求め、「拝して謹聴」することなのだろうと思う。
しかしそれは「敗北」でも「服従」でもない。
「敬意」とは「遠い者」とのコミュニケーション技法のことなのである。