なぜ別様ではありえなかったのか? | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

「精霊は現れ給えり」


約束ではないのだけれど、でも、決まっていたこと。

そう、決まり。

誰が決めたのでもなく、いつのまにかそうなっていたこと。

それは一度もあったことがない。ただそのとき、そのときだけ

たまたまそこに訪れていた。


そうですよね。たしかに、そのときにはそれはそこにあったんだ…。


もうそこにはないもの、それについて、私はここで語らなければ

なりません。決まりは果たされなければなりません。

それは、それが果たされなければならないものであるからではなく、

むしろそれは必ずしも果たされる必要のない種類の出来事である

からこそ、私たちはそのことを深く考える必要があるのです。


「それが何であるかは事後的に回顧される形でしか与えられない」


孔仲尼先生は仰いました。

「未だ生を知らず、焉んぞ死を知らんや。」

なぜ私たちは生を知らないのか。それが何であったのかは事後的に

回顧されなければ手に入らないからです。


何人も未来については確言できない。

なぜならば私たちは正に、「未だ来たらざるもの」をこそ習慣的に「未来」と

呼んでいるからです。


さて、現-実ということですね。

では、なぜ別様にはありえなかったのだろうか。

もちろん、こうでしかありえなかったから。


他でもありえたんじゃないかって?まさかね。