私の青春葬送歌 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

ここでぼくに課せられた務めは、喪の儀礼(mouning work)

です。


どうしてぼくがそんなことをするのか。

マーク・トウェインのいうように、ぼくはただ、精神の主人を

満足させる為に奔走しているだけなのでしょう。

そこには一切の自由がない。ただ、そういう風景が展開

されているにすぎないのです。

だからぼくはこのことについて、すべての意味づけを斥けたい

と思います。そんなことはぼくにはどうだってよいのです。

ぼくは、そうせざるをえないから、そうするのです。


そうせざるをえなくなってしまったのは、吉田松陰先生のことば

にあてられてしまったからです。

吉田先生は、ただことばによって、ぼくの存在を根底から変成

してしまいました。

ぼくは、吉田先生に「言い訳をするな。きみは何のためにこの

天下、生まれ来たのか。己の為すべきことを為せ」と教わりました。

吉田先生はあるいはそんなことを教えた覚えはないかもしれ

ませんが、どんなかたちであれ、ぼくはそれを吉田先生から

学び取ってしまったのです。


内田樹先生はよく、

「弟子というものは往々にして師の教えていないことを学んで

しまうものだよ」と仰っています。そういうものなのでしょう。


さて、きっとあなたは、ぼくにたずねることとおもいます。

つまりそれは、ただの挨拶であって、人間という営みそれ自体に

はじめから内包されているのですから。


「あなたはだれか。何をしているのか。」


ぼくですか?

ぼくは、本を読んでいたのです。

なかなか面白い本です。あなたもお読みになりますか?

…そうですね。

「それを言うことによってあなたは何が言いたいのか?」

子供の問い。


ぼくは、怖れていたのです。

ほんとうに、ただ、怖かった。


それはなんでもよかったんだ。ただ、「何もしていない状況」が

生じてしまうことを止めることさえ出来れば、とにかく何でも

よかったのです。

しかしそれがまさか「本を読むこと」であったなんて、なんとも

皮肉な話でしたね。


どうして、「何もしていない状況」が発生して欲しくなかったのか。

なにもすることがなければ、つまり、ハイデガー先生の仰るように

日常(目的-手段連関)に埋没していなければ、ぼくは、強迫的に

あることを考えないではいられなかったからです。


「青春は、終った。」


いいですか。これこそが正に、いま、ぼくが執り行いつつある、

喪の、対象だったのですよ。


ぼくはほんとうに、どんな意味においても、無知蒙昧で愚かで

悪徳で、頭が悪く罪深い人間です。

ぼくはどこまでいっても凡人です。


ぼくには何にもできやしない。


…やれやれ。

これでどうにか、今回の務めの半分は終りました。

すみません。何の話だかよくわかりませんね。

どういうことか、ご説明します。


喪、というのはどういうことですか。

それは、簡単に言えば、死者を悼むこと、惜しむことです。

幽霊はレヴェナント(revenant)、還り来るものです。

還り来るものとは人間の存在を蝕む真の後悔なのです。

真の後悔とは「何かをしなかったこと」がすでにもう手遅れ

であることを深く想うことです。

それ以上のことではありません。


ぼくが葬ろうとした「青春」とは、未熟さのことです。

だからぼくがしたことの半分は、失われたイノセンスを想って

めそめそと泣くことでした。

それは、本を読むのを「止めて」、何もしない状況に身をおくこと。

そうして、自然と湧き起こる感情に身を任せることでした。


喪の儀礼のもう半分は、成熟、大人になるということです。


大人になるとはどういうことでしょうか。

それは、社会に参与することです。

社会への参与とは、交換に加わることです。

しかし、交換に加わる為には、条件があります。

それは、贈ること、働くことです。

そして仕事は、いつでもオーバーアチーブなのです。

受け取るよりも多く与えること、それが大人の責務です。


だからぼくは多く贈るために、生産的でなければなりません。

生産的であるためには、一般に考えられているのとは逆に、

自らの不能性を深く想う必要があります。


生産性もまた、外から到来するものなのです。

レヴィ=ストロース先生が仰ったように、「人間は自分の欲しい

ものを、人に贈ることによってしか手に入れることができない」。

それは「生産性」も同じなのです。


ですから、ぼくが生産性を望むのならば、同じものを人に

贈らなければならない。そのメカニズムを説明します。


ぼくは、本を読む手を止め、青春の終わりを受け入れました。

そして、自らの不能性に思い至ったのでした。

不能性を認めることとは、荷を降ろすことでした。

自らの荷を降ろすことで生じた余力を、「とりあえず要らないもの」

として人に贈る、つまり代わりに人の荷を負う。

それが、生産性(というか手を貸すこと、ですね。)を人に贈ること。

同時に、力を人に贈ることで、ぼく自身は「虚」となります。

そうすることによってはじめて外から到来するものを受け入れる

ことができる。


そのように外から贈られる「生産性」であり、あるいは「述べる力」、

ですね。それを欲しい、と語ることばはどんなものでしょうか。

それは、「私は知りたい」ではありませんか。


その通り。「本を読むこと」は、パフォーマティブには正に、

「私は知りたい」ということに他なりません。

ぼくにはたぶんはじめからわかっていたんだ。

抑圧されたものは別の形をとって、ずっと表出されていたのですね。


さて、こうして、喪の儀礼は万事首尾よく運ぶことができました。

さいごにもう一度吉田松陰先生のことばに戻りましょう。

「言い訳をするな。きみは何のためにこの天下、生まれ来たのか。

己の為すべきことを為せ」


ぼくにできるのは、ぼくができることだけです。


この易しい同語反復の為に、ぼくには喪の儀礼が必要だったのです。

とにかくも、ある種のねじれが解消できたのではないでしょうか。


よかった。