ここでは表現同士の対立について、そしてそこに入り込む不正義を
いかにして防ぐかについて考えたいと思います。
ⅰ.表現の厳格にして適正な評価システムを機能させるための
ルールが必要である
表現とは、前・表現体がそれを通して、世界に現れてくるものであり
現実に物理的、実際的な影響力を持つものでした。
現実に対する影響力を持つものである以上、表現には手放しの
自由が許されません*01。制限がつくことになります。
というのは、ある一つの表現が現実の唯一の存在ではないからです。
とある表現が複数ある存在の一つであるからには、表現と別の表現
との間の関係性を考えなければなりません。
互いに存在を許容しあう表現同士間には制限は必要ないかも
しれませんが、互いに相手の存在を否定しあう表現同士間については
どうでしょうか?
互いに存在を否定しあう複数の表現は、その内の一つだけしか、
物理的に存在できません。そこで、表現はサバイバルを繰り広げます。
自然状態においては、表現同士の対立、サバイバルは、表現に内在する
純粋な力の優劣によって決着がつきます*02。
表現の力とは根拠の確かさであり、聴衆がそれを聞き、承認を与える
ことで、表現は他の表現を屈服させる実力を得ます。
自然状態における表現のサバイバルは、各々の表現が自らの正しさを
内在的論理によって示そうとし、より多くの聴衆の承認を集めたものが
生き残ることになるので、とても健全であるように思います*03。
しかし、現実社会においては、表現から一段階遡って、表現者自身の
(地位の)力が、表現同士のサバイバルに外在的な影響を及ぼし、
その健全さを損ねてしまっている状態が存在します。
場合によっては、多くの人の利益を無視し、ごく一部の人が不正に
利益を得るような表現が生き残る不正義が生じてしまうのです。
それを防ぐためのルールが必要になってきます。
ⅱ.全ての表現者は他の表現者の存在を肯定しなければならない
表現者自身の(地位の)力が、表現の健全なサバイバルに与える
悪影響とは、具体的にはどういうものでしょうか?
それは、表現自体の力の比較を拒み、聴衆による評価を受けること
なく、外在的に虚偽の承認を集めることでサバイバルを制そうと
するものです。
表現は、聴衆による評価、つまり、「疑われること」を免れることは
許されません。
表現者が表現をするとき、それは同時に自分の表現が正しいと
信じている態度の表明でもありました*04。
互いに存在を否定しあう複数の表現があるとき、表現者は自分の
表現が「疑われること」を経るまでもなく真実であると信じて、
表現を提出するはずですが、しかし、そこで、無自覚な信仰を
一時的に停止し、他の表現が正しい可能性がまだあり、同時に
自らが間違いである可能性が評価を受けるまでは否定しきれない
ことを、認めなければならないのです。
そのことは、
「全ての表現者は、他の表現者の存在を肯定しなければならない」
ということです。
ここから、表現者の二つの責務を導くことができます。
01)表現者は応答責任を負う。
表現は他の表現に対して、開かれてあらなければなりません。
自分の表現が誤りうること、また、新たに情報を踏まえて、変化しうる
ということは、他の表現が聞き届けられなければならないことを
意味します。
けれども、応答責任とは、言語表現として、「Yes、あるいはNoと
答えなければならない」ということではありません*05。
表現者が応答責任を負うとき、彼/彼女の表現について、聴衆から尋問や
反論が向けられたとき、それに何も返事を返さなかったとき、「何もしない」
という積極的な選択をしたのだと見なされ、その選択の帰結によって
もたらされる利益・不利益を全て、甘んじて引き受けなければならない
のです*06。
例えば、赤ん坊が泣いているところを見た人が、周りに誰もいないことを
知ったとき、その人は「赤ん坊の面倒を見るか否か」という問いに答えない
ではいられないのです。
表現者が応答責任を負うことによって、表現の自由競争の阻害は大きく
防がれることになります*07。
02)表現の自由にはひもがつく
発することが積極的に許されない表現は存在しません。
というのは、物理的な拘束によってしか表現自体は制限できないからです。
しかし、発すること自体が誤りであるとされるべき表現があります。
それは、他の表現者の存在自体を否定する内容を持つ表現です。
「全ての表現者は、他の表現者の存在を肯定しなければならない」に
反しますから、認められることはありません。
ⅲ.そもそも表現は、他者的な(異なる)存在との和解を目的としている
表現は、自分自身でさえ訳のわからない前・表現体が、それを
通して自分にわかるように形をとる、という営みでした。
それは、つまり、まず最初に「私」という異なる存在に伝達しようという
意図の下に表現が始まる、ということです。
したがって、表現とは常に、誰かに聞き届けられるための表現なのです。
注釈
*01:物理的存在(行為)の他行為可能性不寛容性。
参考
□残ること、話しつづけること。
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10279688290.html
□「である」という「する」こと
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10290589757.html
*02:「表現の自然状態」は万人の万人に対する闘争である。
ちょっとおもしろい発想だと思わない?
*03:表現がサバイバルを通して、自らの論理を鍛え、理性を
洗練させていく。
*04:「どーすかΩのコミュニケーション論」ⅱの01)の②。
「その命題が真であると文を発した人が信じていること」。
ここでは言語表現に限定しているが、表現全部がたぶん信仰を
含んでいる。
参考
□どーすかΩのコミュニケーション論
http://ameblo.jp/hyorokun/entry-10324738111.html
*05:具体的には誤導尋問を考えている。
「あなたはもう内縁の妻に暴力を振るっていないのですよね?」
この問いは余分に言質を要求する。Yesと答えてもNoと答えても
「過去内縁の妻に暴力を振るっていたことがある」に同意して
しまうことになる。
「はい。今は、もうやめました。」
「いいえ。今現在も継続中です。」
*06:物理的に他の選択肢を選べなかったケースなどは、もちろん
また別に配慮が必要になる。
*07:これで「自由な言論の空間」を完全に保証できるかといえば、
自信がないのだけれど…。