どーすかΩのコミュニケーション論 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

とりあえず、僕が今もっている情報の限りで「コミュニケーション」

についてまとめておくことは「対非母語話者コミュニケーション」を

論じるうえでも有意義だと考えます。


ⅰ.表現について


さて、まず僕たちの心の中には、まだ未分化なもやもやが

渦巻いています。

感情や論理やエピソードや何やかやがぐちゃぐちゃと混じりあい、

こんがらがった複合体が形成されています。

これを、前・表現体と呼ぶことにしましょう。

前・表現体の特性は、判明さではなく、生命力にこそあります。

分かたれていないから分からないけれど、こいつはやがて

色々な形をとりうるという意味で、実現可能性に溢れています。

前・表現体はデュオニュソス的です。


けれども、前・表現体はそのままでは現実に何の影響も与えません。

前・表現体はぐちゃぐちゃでそれを心の中に持つ僕たち自身にさえ、

何が何だか全然分かりません。

それは、何らかの物理的表現を媒介して、はじめて世界に現れてくる

ことになります。

表現はとても判明で、アポロン的です。一定の形を持つために強度が

あり、ある種の普遍性さえあります。

しかし、前・表現体に見られたような生命力は失われ、のっぺりとして、

だいぶつるつるしています。


ここで、僕たちはある問いを考える必要があります。


「表現は、前・表現体を正しく写し出せているのか?」


この問いには簡単に答えられないし、僕もまだちゃんとわかっていません。

とりあえず今、確認しておきたいのは、前・表現体は僕たちにもよく

わからないこと、そして、表現が必ずしも僕たちの本当に言いたいことを

正しく表せていないかもしれない不安があることです。


コミュニケーションにおいて扱われるのは、表現だけです。

表現は、それを発した人に帰属すると考えてよいものとします。


仮に表現が、それを発した人が真に言いたいことを正しく表せていなかった

としても、表現を受け取る人には、反って、その表現が表していることが、

それを発した人が真に言いたいことだと見なしてよいということになります。


しかし、表現が「前・表現体=真に言いたいことの全体」を必ずしも正しく

写し取ることができない不完全なものであったことを考えると、うまく表現

できなかったときにその表現を撤回し、また新たに別の表現を提出すること

は許される必要があるでしょう。



ⅱ.表現の理解、解釈について


表現は、言語表現と標示記号に分けられます。


01)言語表現

言語表現とは、文です。


全ての文に共通する性質があります。

①命題を含むこと

②その命題が真であると文を発した人が信じていること


①について、もちろん命題には肯定命題と否定命題があります。

②について、嘘やあべこべのことを言っているときはどうでしょうか。


「あんたなんか大っ嫌い!!」はときとして、

「あなたのことが大好き」を意味します。


これは、文を受け取る人が文の意味を理解するために、目の前の

文に一定の操作を加える必要があります。

そして、最も基底にある文の意味を解析していけばよいのです。


つまり、上の二つの特性は、文の中でも、操作を全て終了した、

文の基底的な意味に属しているということです。


言語学には、文の意味に対するアプローチはたぶん、

意味論と語用論の二つがあります。


たとえば、この文を考えてみましょう。


「ネズミがいるんじゃないの?」


意味論では、文の語彙的な意味を考えます。

ネズミ…灰色の長い毛をもち、四足歩行の小型哺乳類。

いる…その場所に存在する

つまりこの文は、次のように置き換えが可能です。


「灰色の長い毛をもち、四足歩行の小型哺乳類がその場所に

存在する」


語用論では、文の文脈的意味を考えます。

この文は、「お兄ちゃん、あたしのケーキ勝手に食べたでしょ!?

楽しみにとっておいたのにぃ~。」に対する答えかもしれません。


そこでは「ネズミがいるんじゃないの?」という文は、「僕が食べ

たんじゃないよ」と同じ意味であり、さらに「ウソだ~っ。さいあく…。」と

返されます。


あるいは、この「僕が食べたんじゃないよ」「ウソだ~っ。さいあく…。」

という下りが、ありがちな典型的やりとりだという認識が共有されて

いるのならば、

「ネズミがいるんじゃないの?」=「僕が食べました。ごめん。」と

置き換えることができるかもしれません。


先の文の特性について、ここでも置き換えの操作の後の意味が、

基底的な意味だということになるように思えます。

しかし、このように、同じ文から、まったく反対の意味を引き出すことが

できる場合があることが分かります。


「語用論的意味置換操作の可能域は、その根拠が文脈から取り出せるか

どうかによって規定される。」


ここではこれ以上踏み込みませんが、これはとても難しい問題が含まれて

いるように思えます。


文の意味の話しに戻ります。

基底的な文の特性の一つは、命題を含むことでした。

フレーゲは文の意味をその真理値にあると考えます。


たとえば、「この林檎は甘い」であれば、甘ければこの命題が真、

甘くなければこの命題が偽であるというように、真偽の値、真理に関しての

価値すなわち真理値が求まります。


これはとても正しいんじゃないかなと思えるし、僕には否定するだけの

十分な根拠を提出できません。ひとまずこれを受け入れることに

しましょう。


最後は、命題の変項に代入されるべき名辞の観念の問題です。


「林檎」や、「甘い」といった観念は一体何なのでしょうか?

ごめんなさい、わからないです。

たぶん、個別的な体験の蓄積が何らかの飛躍を経て結晶した普遍者

なんだろうなと思うけど、やっぱりわかんないです。


さて、これでとりあえず言語表現の説明は終わりです。

ぜんぜんMECEじゃないけど、ごめんね。

(フレーゲの意義とかどこに位置づけるべきかぜんぜんわかんない)


02)標示記号

標示記号は、習慣や約束によって予め決められています。


非常口のマークで頑張ってるピクトさんを思いだして欲しいですが、

決め事なので、知らないやつには通じません。


知っているかどうかで受け取る人間を選び、そして、伝える内容は融通が

利かず一つの意味しか割り当てられない代わりにほとんど誤解されずに

きちんと伝わります。


例:ピクト=人間


これはそんなに難しくないと思います。


ⅲ.コミュニケーションについて


01)コミュニケーションの種類

コミュニケーションには、一方向的コミュニケーションと、双方向コミュニ

ケーションとがありますが、どちらにしてもコミュニケーションということの

本質は、もちろん共通しています。


コミュニケーションの本質とは、

情報の発信者と受信者とがいるときに、情報が人から人へと渡っていく流れ

だと考えます。


一方向的コミュニケーションが一回的であるのに対し、双方向的コミュニ

ケーションは複数回的です。


マスコミ、マスコミュニケーションは一方向的コミュニケーションの代表例と

言ってよいかもしれません。多くの人間に情報を伝達できることが魅力

ですが受け取り手は発信者になることがないために受動的になってしまい

ます。したがって、発信者と受信者との立場の高低差が解消されずに固定

されますが、それには功罪二面あると考えられます。


双方向的コミュニケーションの原的なイメージは対話です。

対話では受信⇒発信⇒受信と役割が交替されて、繰り返されるために、

毎回相手の発言をフィードバックした表現になることが特徴的であると

思います。


コミュニケーションにおける、「受信・発信」とは、「解釈・表現」のことだと

考えてよいと思いますが、実際的な解釈、あるいは表現の当否判断には、

表現以外の要素が入り込みます。

それをノイズソースと呼ぶことにしましょう。


02)ノイズソース

純粋培養の議論空間においては、ノイズソースを当否判断に持ち込むこと

は虚偽・誤謬、あるいは詭弁だと非難されますが、実際的なコミュニケー

ションの場ではノイズソースを考慮に入れるのが普通であり、詭弁批判は

力をもちません。


たとえば、アルバート・メラビアンの3Vの法則というものがあります。

3Vの法則とは、話者が聴衆に与える影響の三つの要素を比較したもの

です。


Verbal:言語情報、内容:7%

Vocal:聴覚情報、声:38%

Visual:視覚情報、見た目:55%


この実験自体は数字を鵜呑みにしてはいけないような、あんまり信用

できない素朴なものでした。しかし、人間が相手のメッセージの判断に

言語情報以外のものに頼っている部分は決して小さくない、ということは

十分に示しているのではないでしょうか。


つまり、僕たちはコミュニケーションに際して、言語表現の中身以外にも

気をつけなくちゃいけないってことです。

しかも、ノイズソースによる判断には、文句が言えない。


どうしたら、自分の言いたいことをノイズソースによって損ねることなく、

できるだけ正しく伝達できるか?


まず、結論から言って、中立的に、正しくそのまま、というのは多分

無理です。けれども、相手がノイズソースによって自分の言いたいことを

理解してくれない、あるいはさらに受け入れてくれない、というのも、

やっぱり嫌ですよね。


なので、ちょっとずるいかもしれませんが、多くYesをとる方法を

考えましょう。


03)ノイズソースを自分に都合よくコントロールする。

3Vの法則の言語情報と先ほどの言語表現とはもしかしたら

一致しないかもしれません。


ぜひ、次の記事を読んでください。

□言葉の順番がいかに重要かを示すひとつの例 - 頭ん中

http://www.msng.info/archives/2009/08/importance_of_sentence_order.php


このように、文の意味には、命題の真理値以外にも、(さらに意義以外にも)

ひとつには「語順」という要素が大きな役割を果たしていると言えそうです。


日本語では、重要なのは語尾ですから、文の最後に、一番言いたいことを

端的に言い切るということが大事でしょう。


他にも言語情報部分でもノイズソースはあるかもしれませんが、

(意義とか)とりあえずここでは語順を挙げておきました。


視覚情報や聴覚情報については、清潔なシャツを着るとか、ゆっくり

はっきり話すとか、色々あるかもしれませんが、シンプルにまとめれば、

「好感をもたれるように」ということです。それだけ。


04)業績原理と帰属原理

これで全部、のように見えますが、実はまだあります。

ここまでの議論は、今コミュニケーションをとる、正にその場での要素に

ついて、話してきました。


その場での頑張りによって、主張の当否を判断する原理を業績原理と

呼びます。

反対に、個人が生まれつき属性や、自分で変更できない属性を判断要素と

する原理を帰属原理と呼びます。


帰属原理の問題は、たとえば、死刑廃止論に見ることが出来ます。


「死刑反対!」と唱えたのが、

長年自ら死刑を宣告してきたが、死刑廃止に転向した裁判長というのと、

死刑を間近に控えた死刑囚というのとでは、全く印象が異なります。


このケースで、帰属原理を是とする人は、企業の入社面接試験で、

障害者であるという理由だけで落とすというケースを考えてみてください。


帰属原理の冷酷さに直面するときに、個人は帰属原理なき

コミュニケーションということを想像することがあります。

失われたコミュニケーションの回路の回復と、全体としての調和・安定の、

「はじめての」構築を考えるとき、異なるものに対する無限の寛容が必要と

されます。(たぶん初期ヘーゲルのいう「生命」)


でも、結局のところ、解決は帰属原理がある場の内にはありません。

帰属原理による判断は、その場では個人にはどうすることもできません。


そういう意味では、業績原理は正しいということです。

分配的正義の政策はまた別に必要かもしれませんが、ティンバーゲンの

定理から考えて、ひとつの政策にはひとつの成果以上のものを望んでは

いけないでしょう。



さて、これで僕のコミュニケーション論は、ひとまずおしまいです。

穴だらけではありますが、下敷きにする分には十分ではないかと

思います。