今、僕がここで書くことは三つあります。
ひとつは、
「ブログコミュニケーションの限界性について」
ふたつめは、
「僕があいまいな表現を好むのはなぜか」
みっつめは、
「れいさんへのお返事」
……です。
まず、ひとつめ、
「ブログコミュニケーションの
限界性について」
ここが公開ブログである以上は、
僕はいただいたコメントにお返事するときに、
どうしても第三者の視線を意識せずには
いられないです。
だから、それぞれのコメントに、ではなく、
みんなの方へ向いて話す、ということに
なってしまう。
このことはわかって欲しいです。
それから、ここらのブログ界隈は、僕にとって、
「ホーム」なわけです。僕の所属する友人たちの
コミュニティが覆いかぶさっている。
僕は僕の友人たちが決して、
排他性だけによってアイデンティファイするような
やわな人たちじゃないのはよくわかっていますが、
どうも僕らはある種の様式美みたいなものを
愛してやまない性質をもっているようなので、
異邦人にとって、いささか足を踏み入れることを
躊躇われる空気が醸成されやすい。
それを打ち破るために、それは僕らのためにも
なると僕は勝手に思っているんですが、
僕はこのブログをより公共的なものにしようと
意識しました。
それが、「どーすかΩ2.0」の時代です。
そして、それは同時に、Weblogというものが
マス・コミュニケーション・メディアであり、
どうしても独りよがり(一方向的)な性格を
帯びる傾向がある、ということを僕自身が強く
意識するためでもありました。
(だから、もし、僕との親密なインパーソナル・
コミュニケーションをとることを志向する奇特な
ひとがいましたら、メールを利用してください。)
次に、ふたつめ。
「僕があいまいな表現を好むのはなぜか」
お気づきの方も多いかと思いますが、
僕はあいまいな表現、によって説明を試みる
ことが多いようです。それはなぜか。
端的に言うと、僕が書きながら考えるタイプだから、です。
それはどういうことかというと、まずは、書いているときに
「ちゃんとわかってない」ってことです。
どんなことでも、断言するのは難しい。
断言するためには、多くを調べ、断言する自分に自信を
もたなくてはなりません。自信がなければ、もっと調べている
人に間違いを指摘されるかもしれない、と考えて、断言する
自分自身に納得できないと思います。
僕は、ちゃんとわかってないのと、そしてそのことをいくらかは
自覚しているので、わからないことは、わからないままに、
考えようと意識しています。
それから、あいまいな表現によって、可能性を殺すことを
回避する余地を残す、という試みでもあります。
これはそれこそ、ホールデンの問題意識とも通底している
と思いますが、単純化、効率化、ということは長く引き伸ば
された経路に宿る、その構成要素に還元されえない余剰を
消失してしまう。
たとえば、楽譜のメロディラインは、それぞれの音符に
還元すると失われてしまいます。
僕はあいまいな表現の含みの部分によって、
その問題を解決しているつもりです。
だから、このブログの全ては、流動的なものです。
それは僕が可謬的であることを認めることでもあります。
しかしそのことは、僕が学んでいく課程で僕にとって有利だから
とる戦略ですので、いつでも有効かどうかは保障できません。
そして、同じことに系譜学的な説明を与えると、
もともと、僕は文学を哲学的観想の出発点としたので、
世界への文学的アプローチを好む傾向があるのは、
当然といえば当然ではないかと、思います。
文学性を梃子にして世界を理解しようとするのは、
ケータイ小説やオタク文化などにも見られるような、
現代に広く流布した方法であり、僕が特別やっている
わけでもないと思いますが。
付け加えておくと、僕はあいまいな表現のデメリットは
意識していますが、それでも、それをおいても使用する
十分な価値があると判断したので、選択しています。
ですから、あいまいな表現を選ぶことによってもたらされる
副作用の障害を、甘んじて受ける覚悟はあります。
最後に、みっつめ。
「れいさんへのお返事」
あ、そうだ。まず、呼び方はれいさん、でいいですか?
Rさんだとちょっとよそよそしいので。
申し訳ないですが、ここではまず、これからどうお返事
するか、の説明だけさせていただきます。
れいさんのコメントを読んで、僕は三つの点を明らかに
してお返事しないといけないと思いました。これも、みっつです。
ひとつ、簡単なことでも、どんどん話していくことが
正しいと思うこと。
ふたつ、僕のことを心配してくれるのは、とってもうれしかった。
僕がこれから「過多に誠実になってしまうこと」をどう対策
するかということ、それを説明しなければならない。
みっつ、れいさんの、
《いつだって守るべきはちぎれそうな人だ》ということ、
《君が嘲笑う人々を、れいは愛すよ》という二つの
考えは、とても大事なことだと思う。僕もなかなか簡単な考えから
出発し、何度もそこに立ち帰って前に進もうと考えている。
かげふみのようなこと、のやり方を、今仮に「キャッチャーの原理」
と呼ぶけれど、あれは、「最初の、直感的だけどすごく説得力の
ある考え」を守るためのものだ。
だから、僕はれいさんの考えを支持する、ということ。
僕はちょっと、いや結構マイペースなひとだから、
僕のやり方で、これら三つのことに関わることをこれから先
しばらく説明して、そして最後にこの三つをそのまま簡単に
答えたいと思います。
ちょっと時間がかかりますが、よろしくお願いします。
以上です。根気よく読んでくれた人は、どうもありがとう。