彼からの伝言 | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで

 さて、どこから話し始めたものか……。そうだな、僕は確か

「I'LL FOLLOW THE SUN」で一度、まだ答えは出ないと逃げたわけ

だけれど、今回は僕のもっているありのままをちゃんと手渡すことに

しようじゃないか。


 僕は一度、「リアル」というものをどうしようもなく求めた。もう本当に

ただ「リアル」というものを手に入れようとして全てを注ぎ込み、やはり

失敗に終って、そして、死んだ。その思考の流れというか苦悩というか、

一個のちっぽけな魂の陳腐な悲喜劇の軌跡こそがどーすかΩの一面

だった。「実は…、」という言葉と共に僕がこれから展開する情けない

エクスキューズのComplexをどう捉えるかは、もう君に全部任せるしか

ないんだけれど、たとえそれがどのように位置づけられたとしても僕は

文句を言わない。それに僕が最初に発言してしまったが最後、もう後から

僕はオリジナルとして言葉を付け加えることが出来ないからこそ、それが

紛れもなく僕の言葉であり、僕のありのままだったのだということを証明

してくれるのだろうと思うよ。


 よし、じゃあ今からは、こないだまで僕がなんだかずっとぐずぐず言って

いたあれらのどうしようもないエントリ群が果たしてどういうものだったのか

を説明していこうと思うけど、その前に僕が一体どのようにモノを考える

か、そしてそう考えてしまうような僕を作った「体験」は具体的には

どういうものだったのかを説明する必要があると思う。まずはその「体験」

から話し始めることにする。(「体験」の説明は以前も試みたことがあったり

するんだけどね。)


 僕の行動を規定してきたのは、僕の家族であり、友人であり、学校で

あり、社会だ。それらは僕の前に様々な「限界」を用意し、僕はそれを回り

込むようにして前進を続けてきた。「欲望と抑圧のシーソー・ゲーム」が

僕という現象を形作っているとでも言ったらいいかな。僕は本を読み、

音楽を聴き、映画を観て、友人と話す。パスタを食べ、チョコレートを食べ、

竹田青嗣の哲学書から通りすがりのかわいい女の子に目移りし、鼻歌を

歌う。そういう「体験」の反復・連続の中からもやもやと立ち現れてきたのが

僕だ。


 僕はどこにでもいるような平凡な少年だった。僕ももれなく、つまらない

ことを面白おかしく話すのが好きだった。ずーっと友人たちと話したり、

遊んだりしていた。成績は壊滅的だったけど、僕は毎日にとても満足して

いた。それにしても僕は、本当に何も考えていなかった。それはとても幸せ

なことだったけど、いつまでもそのままではいられなかったんだよね。

今ではもう思い出せないんだけど、ある時から僕は「自分は一体どういう

人間なのだろう」と思うようになったんだ。あんまりにお決まりのフレーズに

自分でもいささかクラクラとさせられたんだけど、この「声」は僕の奥のほう

から独りでにあふれ出てきていて、僕には止めようがなかった。とにかく

僕は、毎日その「声」に付き合った。シャワーを浴びてるときとか、フォーク

の縁を使ってジャーマンポテトから炒められたタマネギを除けてるときとか

(邪道だ)、僕の都合にお構いなく、その「声」はいつだってグズグズグズ

グズ、もう引っ切りなしに流れていたから、僕としてはもうさ、「自分は一体

どんな人間なんだろう」って僕が考えてるんだと認めるしかないじゃないか。
さて、幸か不幸か、「自分は一体どういう人間なんだろう」という「声」の為

に、僕は少しモノを考えるようになった。そのおかげでそれ以降のこと

ならばある程度はみんなに説明できる。「オリジナリティの古典的模索」が

ここでも始まったってわけだ。


 しかし、それまで何にも考えていなかった人間がいきなりこんな難題を

解けるわけがない。とりあえず僕は自分に近い生態をもつ僕の友人たちを

観察することにした。もちろん観察対象は僕の家族でも良かったわけ

だけどどうも僕には、彼らを見ていてもその問題が解けるとは思え

なかった。観察するといっても何か特別なことをするわけじゃない。

それまでと同じように学校生活を送るだけだった。変わったのは、僕の

中に「声の人」とでも言うべき「目」が生まれたってことかな。

簡単に言えばちょっとはモノを考えるようになったんだ。


 僕は友人たちの観察を通して、「どうすればいいか」がちょっとだけ

わかってきた。まず、僕の「限界」がわかった。「声」の方も無視できないに

しても、僕は何よりもまず、毎日の生活を蔑ろにすることは出来なかった。

(もしかしたら、そこには必ずしも「勉強」は含まれないかもしれないけど。)

好むと好まざるとに関わらず、僕は呼吸し、食物を摂取し、排便し、休息を

とらなければならない。それに加えて、友人たちとのやりとりも含めた

「学校生活」も必要不可欠だった。それらなしでは、僕は僕を維持できない

と思った。というわけで、当時僕の行動を規定づけていたインセンティブは

1.学校を離れられない。(退学させられるわけにはいかない)
2.家を離れられない。

(現金な言い方をすれば、親のご機嫌取りはある程度必要だった)
の二点だった。この時点では僕はやっとモノを考え始めたところで、

「自分は一体どういう人間なのだろう」という「声」と戦うのに精一杯だった。

僕は僕の「平穏なる日々」を守るために、退学にならないような最低限の

努力?さえしていればよかったって事だよね。言ってしまうと僕は最低限の

努力しかしてなかったんだけどさ。ここで僕が手に入れた情報を少しだけ

突っ込んでみよう。呼吸うんぬんは、僕の身体や生命活動の維持には

必須だ。それはわかる。しかし、「学校生活」が不可欠とはどういうこと

だろうか。必ずしも必要じゃないように思える。でも当時の僕の直感は、

本態的に「学校生活が必要」だと囁いていたし、それを直接体験した僕に

言わせてくれるならば、根拠がなくても、どうしても必要だったと断定する。


 次に、「学校生活」の成分を分解してみよう。学校に行けば、いつもの

教室、いつもの机、いつもの友人たちがいる。ひとつは、この「いつもの」

ってのがポイントになりそうだ。そして、僕の学年には「ワタナベくん」が

たくさんいたんだけど、彼らとの交流から類推するに、僕たち生徒にとって、

かわいい子豚さんたちの耳に「何年何組何番の何とかくん」というタグを

つけてもらえることが重要だったのではないだろうか。生徒達にとって、いや

当時の僕にとって、重要だったのは「授業」ではなくてそのタグの方だった

んだと思う。学校で僕は耳についたタグを嬉しそうにいじりながら、目の前の

ベルトコンベアを右から左へと流れてゆく「授業」を、ブタ面下げて眺めて

いただけだったんだ。まあ、今さら言っても仕方がないよね、ブヒブヒ。

なぜタグが重要だったかというと、それが「いつもの」学校に来ることが

許される「通行証」の役割を持っていたからだと思う。学校に来れば友人

たちに会えるし、彼らと話すことが僕にはとても重要だった。


 ほとんど何も考えていない当時の僕にとって、友人たちと僕との関係は

それで完結する「世界の全部」だったんだけど、今ならそんなことはないと

分かる。少なくとも僕の学校の中にも同じような集まりはたくさんあるわけ

で、それはとあるひとつのコミュニティに過ぎないと言うことが出来る。

僕は僕の家族というコミュニティの一員としての「僕」であるのと同時に、

友人たちとの集まりというコミュニティの一員としての「僕」でもあった。

どちらも僕だし、僕からすると、どちらが欠けても僕じゃないと思うよ。

当時の僕はそれが世界にたくさんあるコミュニティのひとつとしての

「友人たちとの集まり」という感覚は持っていなかったんだけど、家族の

一員としての「僕」だけでなく、その集まりでの「僕」としてちゃんと成立して

いないといけないと考えていたような気がするね。


 僕は、「自分は一体どういう人間か」を、友人たちと僕とを比べたときの

違う部分だろうと思った。でも、僕がわざわざ彼らと違うように振舞っている

から、そのコミュニティに所属できているのでもない。僕はごく自然に、

みんなと同じ、つまりはフェアなタグつきブタとしてコミュニティにいるだけ

だった。でも、何となくではあっても、メンバーごとの特徴みたいなものは

あるよね。僕はコミュニティの中で、どういう「役割」を担っているか、どういう

「位置」に立っているか、どういう「仕事」を果たしているか。深く考えていた

わけではなかったけど、そういうことを少し気をつけて観察していたように

思う。


 しかし、観察を続けていっても、あまり大きな収穫はなかった。確かに、

僕は彼らと比べると「おしゃべり、何も考えていない、運動も勉強も

出来ない」とか、いくつかの素敵な特徴を持ち合わせていたわけだけど、

それらは僕がコミュニティにいてもいいという理由にはならないような気が

した。しいて言えば、「何も考えていないおしゃべり」が分析に値するかも

しれない。僕は学校のテストにはあんまり興味がなかったんだけど、そう

すると部活動も中途半端に辞めてしまった僕にとっての「生きがい」という

か、生活の充実度を測るよな価値軸はどこにあったんだろうか。たぶん、

「何も考えていないおしゃべり」は、友人たちの集まりを楽しませることを

最優先事項においた行動原理をもっていた。もし、僕だけが知り得た

面白いことがあったのなら、コミュニティの一員としての「僕」はその面白い

ことを友人たちにおかしく話すという「義務」を全うしないではいられなかった

んだ。コミュニティの方が僕に「コミュニティに所属し続けたいのなら~を

しなさい」と仕事を命令したことは一度もなかったんだけど、僕の方は

面白いことを伝えるという「仕事」をコミュニティの為に率先して行っていた。

友人たちにとってはありがた迷惑だったかもしれないけど、僕にはそうする

必要があった。


 僕は「声」との戦いを続ける一方で友人たちの集まりというコミュニティの

一員としての「仕事」をこなす為に学校に通った。しかし、学校での関係は

飽くまで学校の中だけのもので、家に帰れば、僕は家族の一員としての僕

に戻った。そこには明確な線引きがあり、それぞれのコミュニティで僕が

ほとんど同じことをしていたとしても二つの種類の「僕」は、真っ二つに

分かれた全く別の色の人間だった。家の常識は必ずしも学校では通用

しないし、学校での常識もまた、家ではろくに機能しなかった。ちょっとその

辺の事情を補足しておこう。都内の私立中学・高校にはもちろん関東エリア

の各地から生徒が通っている。中には千葉県は果ての果て星雲、土気

あすみが丘なんていう素敵な片田舎から外房線・総武線を乗り継いで

半日もかけて学校まで来ている人間もいる。pさん、ホントにご苦労様。
そんなわけで、同じ学校の生徒とは言えお互いの家が遠い。高校は

ともかく中学の場合も学校が終ってから友達の家に遊びに行くなんて

できないから、学校での関係は全く学校の中だけのものだったんだ。

僕は成績もあまりよくないし、部活動にも委員会にも所属していなかった

し、僕の行動を作る学校と家と、それぞれのコミュニティの原理が全く

分かたれたものだったから、とても不安定な存在だった。「声」との戦い

が、友人達とのやり取りの中からしか解決することが出来ないと思って

いたから、僕は友人たちとの集まりのコミュニティへの依存をいよいよ

強くしていった。そんな間延びした、しかし切実であった僕の世界が

変わり始めたのが、学校での僕らのコミュニティが高校にあがった位の

時期のこと。友人の一人がHPを立ち上げて、ネットを介することで

僕らはついに星雲間の天文学的な距離を克服したんだ。ウェブ以前と

ウェブ以降とではほとんど何も代わってないように思えるけど、ウェブは

僕の生活の構造を根底から変性していった。


それからのことを語るには、どーすかΩと周辺の地理、それから今ここ

の僕について、説明しなければならないということになるけれど、僕は

まだその為のリテラシーを身につけていない。だから、まずは、ここまで。

後半はこれから先、その時が来たら話すことにしよう。