僕から見た「実際の僕」ってのはいつも、他では
ありえない、唯一の存在としての自分に見えちゃうん
だけど、結構「他でもありうる」ものなんだよね。
なぜならば、僕らにとってコントロール不可能な感情も
また、遺伝と環境とによって決定されるものだからだ。
だからもし、絶対存在というか、僕と君とは置き換え可能
なんだと考えるときに、思考実験の中で手で触れることが
できる、そして置き換えられる「分銅」みたいなものとして
<魂>を想定するのなら、その<魂>と「実際の僕」とは
不一致だ。
補足しておこう。
<魂>なる概念がなぜ必要なのかといったら、それは
想像力の問題だと答える。老人をいたわったり、戦争に
反対したりということの為には僕が彼らになりうる「弱者」の
位置に立ちうるんだという想像力が必要だ。
「情けは人の為ならず」という言葉もそういうことが社会の
存立に不可欠だという教訓であるし、身分制度化で貴族階級が
貧民を「家畜」と見なすように、本来ヒトは欲望に忠実な動物に
過ぎないのであって、「人間」というフィクションを特別に思い描く
のであれば、社会システム──ここでは深く掘り下げないけど、
プリミティブな社会?である「群れ」のエートスの中にも規律は
存在する、ということがゴリラを見ればわかるよね──の中に、
ヒトを人間に導くインセンティブを導入しなければならない。
それが消極的な制限か、積極的な管理かは別にして。
「他ではありえない、唯一の存在としての僕の実際」という
イメージはもちろん、ヘーゲルの「理性の狡知」を想起させる。
というか、意識して/させられて、いる。
今ここへ到る「歴史」は、(そして今ここから続いていく歴史は、)
真正にして唯一の、人間が弁証法的に絶対真理へと向う軌跡だ
…みたいなものだったよね。
日本書紀とか天皇は万世一系でカミサマの子孫で唯一絶対とか、
「純血な日本国民」みたいなイメージもそういう…「香ばしい」ものだ。
いや、別に僕がそれらに対して今すぐどうこうしようというんじゃない
けどさ、「国家」が「国民」、「国境」、「国益」なるものを規定するので
あって、地球の表面に線が引いてあるってわけじゃないよね、
という確認。
そういう「唯一絶対に見える今ここに到る僕の実際」という単独性の
感覚は、「リアリティ」とか、「主客不一致」の問題とか、同じことだけど、
「この世界が物理現実で、トゥルーマンショーじゃないんだ、テレビの
ソトなんだ」という問題と密接につながっているはずだ。