おへんじかいた | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

この部屋の中にいるヤツに会いたいのなら もっと、寿命をのばしてからおいで


こんばんわ。ひょろです。

まるすけさんにお返事書いた。


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資本主義の評価軸によって価値づけられる能力は、

結局のところ「代替可能」だってことはいいよね。

インターネットがやばいってのはどうしてかというと、

情報の共有化がこれまでに無いくらい加速しているということ。

↓とりあえずこれ参照。


□「知っている」それ自体にはもはや何の価値もない

- ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記

http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20080922


「インターネットはインタラクティブ(双方向)な

コミュニケーション・ツールだ」というのは、

テレビ、ラジオ、新聞、本、雑誌・・・といったような

既存のメディアとの対比で用いられるフレーズだ。


テレビ・ラジオメディアと新聞・本メディアとの間にも

大きな違いがある。前者は音声(+映像)メディアで、

後者は文字メディアである。


さらに言えば、テレビ・ラジオに対して文字メディアは

能動的な性格を持っていて、きちんと自分とテクストとの間に

線引きがされている。対象化がなされるから、きちんと

批判的な視線で眺めることが出来る。


テレビやラジオは受動的であるから、時として、

プロパガンダや世論操作に利用されて効果絶大だったりする。


(ちなみに、僕が「マンガ脳」「ゲーム脳」という言葉に反発するのは

一応これらが文字メディアであり、自分から能動的にコミットする

メディアであるという側面が全く評価されていないからだ。

FFは・・・ちょっとムービーが多すぎるかもしれないけど。)


これらと比較して、ウェブは双方向性をもっている。

誰かがアクションしたあと、それに対するリアクションまでが

同じ水準で語られ、最終的にはきちんと統括され、保存される。


傾向としては、ウェブにおいて、あらゆる情報は文字媒体の情報に

置き換えられていく。文字媒体の情報として、半永久的に残り続ける

ということは、情報の価値付けがその新旧の尺度への依存を減らし、

その有用性によって評価されるということになる。そして、誰しもが、

自由に(時間や空間に縛られずに)共有化されたあらゆる情報に

アクセスできるようになったとき。

その情報の再構成構造[=シミュラークル]にしか、「価値」は担えない。


そんなんなったら、人生が偶有的で代替可能で、

究極的には無意味なものだって痛感するよ。


社会システムには暴力が内包されているから、政治は残るけれども、

一般人は耳と目を閉じ口を噤んで孤独に暮らしていくことになる。



どうするよ?



こまるっしょ?



とりあえず、ヒントをあげるけれども、ここまでの議論には

落とし穴があります。


それが、「ロゴス主義」さ~。


まあ、今日の模試で出てきたんだけどね。

(野内良三『偶然を生きる思想』)


言葉では、真理は語り尽くせない。

(「語りえないことについては人は沈黙せねばならない」)


言語化できない価値が、必ず、ぼくらの<リアル>にはある。


人間には五感があって、さらにそれを統合する「意識のようなもの」

がある。(それが第六感かもしれないけど)

視覚情報、聴覚情報、嗅覚情報、触角情報、味覚情報は、

長期的には0101・・・で置き換えて、代替可能な情報として、

共有、保存が可能である。


共有・保存が可能ということは、繰り返すけれども、

最終的にはそれらが無価値化されるということだ。


僕達の世界はそんなもので揺らぐのか?

僕は違うと、・・・祈っている。

情報を言語化し共有化する過程で、零れ落ちる価値があるはずだ。

見えないけれど、触れないけど、臭いも味も音もしないけれど。


それはアウラか、Ghostか?


身体、記憶、他者からの承認の三つがあっても、

人間を人間たらしめることは不可能だ。

そこには決定的な要因が欠落している。



僕らは、あの空の波の音が聞えるあたりに、

それを探しに行かないといけない。


そのそれを。



・・・とりあえずは、そゆことさ。