『時間の秩序と秩序の時間』を読んで
時間の秩序と秩序の時間を読んで、学校について考察する。
ウェブ環境が整いつつある現状の時点で既に時間を権力から奪回することが可能である。
そこで、学校が秩序の時間によって子供達を管理したことを反転し、逆に学校をどうデザインすればいいのかを考えたい。
科学の発展により生理的欲求を満たされ、多文化主義によってあらゆるパースペクティブが同じ次元である程度存在を許されるような社会において、最後に我々を縛るのは、寿命という<時間>である。さらにグローバリゼーションと、WWWのネットが地球を覆い尽したことで、世界は物理的制約、空間的制約から解放されつつある。よって限られた時間において、何を誰とどれだけするのかの取捨選択が「自由」であり、自己実現であるといえる。学校機能は今後、大きく二種類に分類され、それらが相補的に働き子供達とコミットしていくことになる。ふたつのカテゴリーとは、「同期型コミュニケーション」と「非同期型コミュニケーション」である。前者は顔を見合わせる熱気や臨場感、一回性のアウラに満ちた劇場的な空間であり、これまで学校と呼ばれてきた「場所」に限定される、非流通的なコミュニケーションの価値を抽出したものだ。後者は暗記科目や問題演習、テクストを読む作業など、基本的にはいわゆる文字コミュニケーションに属するもので、具体的にはインターネットを媒体としたバックアップシステムの構築が考えられる。文字コミュニケーションの最大の魅力はリリーディング[=再解釈]によって価値が再生産されることにある。ここでは多くのパースペクティブがむしろ価値創出に大きく貢献するため、情報を共有し並列化していくことが推奨される。
学校が秩序の時間を基準軸として設け、子供達を管理したのは、教育がナショナリズムと切っても切れない存在だったからに他ならない。戦前の日本において学校とは権力構造であって、先生が如何に子供達を管理するか、に重点がおかれていた。そして、戦後の冷戦構造下においても教育によって良識的知識人を育て、「資本主義の申し子」を育てるシステムとして機能していたのは間違いない。現在の日本が秩序の時間によって授業を展開し、大学受験制度によって「良識」ある脳[=高校卒業程度の習熟度の身体]に調整する能力が問われる構造をとっているのはその名残であり、生徒達の内に資本主義社会に適合した、代替可能な労働資本的性格を醸成するためであるといえるのではないか。
これを反転していくには、たとえば「非同期型コミュニケーション」部分によって様々なパースペクティブを反復し、追体験させることが挙げられる。また、従来の学校のように、学校の時間を全て制限し、管理された時間軸に子供達を押し込めるのではなく、制限によって価値が生まれる「同期型コミュニケーション」部分と、能動的に選ぶ権利が与えられる「非同期型コミュニケーション」を色分けすることで、過剰な管理体制から、共同体への意思的な参画というポジティブな関わり合いに昇華することが可能ではないか。