運慶とWeb2.0(その3) | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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さて、これで松尾スズキの「第六夜」の謎は解けました。

しかし夢十夜「第六夜」の最大の謎「それで運慶が今日まで生きている理由もほぼわかった。」が解決していません。

夢十夜「第六夜」の舞台は明治時代です。

明治時代の群集の中に、鎌倉の人間である運慶が仁王を彫っているという不思議。

漱石は運慶がなぜあんなにすんなりと仁王を掘り出せたのかと疑問に思い。隣で見物をしていた若い男が「(仁王は)まるで土の中から石を掘り出すようなものだから決して間違うはずはない。」と言ったのを聞いて得心します。さっそく家に帰って自分も仁王を彫ろうとしますが、残念ながら木の中に埋まっている仁王を見つけることはできませんでした。

そこで「それで運慶が今日まで生きている理由もほぼわかった。」とのことです。

では、そもそもなぜ漱石は彼が運慶だとわかったのでしょうか?

「仁王を彫っていたから」ですよね。

ここで、明治の群衆の中に運慶がたったひとりで仁王を彫っていたことに注目したい。

あくまでイレギュラーなのは運慶であり、彼は今、個人として群集の前にいるのです。

本来、運慶が生きた時代は鎌倉時代です。

もし、鎌倉の町で運慶が仁王を彫っていてそこに鎌倉の住民が通りかかったとします。

そこで「まるで土の中から石を掘り出すようなものだ」と聞いて、自分でも彫ってみるでしょうか?

この時代の人間は、「仁王を彫れるのは仏師だけだ」と考えていたのではないでしょうか?

仁王には呪いの意味もあります。仁王を彫れるのは限られた人間だけでした。

そして運慶の父もまた仏師です。つまり、鎌倉の時代において、運慶は「環境」と「才能」とを持ち合わせていた人間でした。

しかし、明治の人間は仁王を「作品」と捉え、運慶を「作者」と捉えています。ここで評価されているのは、純粋に仁王を彫る男の腕前です。仁王には別に退魔の大仕事もありませんし、運慶も仏師だから偉いわけではない。この時代まで運慶の名を人々が覚えているのは正に運慶が「仁王」という素晴らしい作品を残したからです。運慶が仁王をスラスラと彫れたのは、仁王を彫るのが運慶だからでしょう。作者「運慶」は仁王を作品と捉えるようになった明治の人間の価値観からの呼称です。逆に言えば、仁王を彫ることができれば、誰でも運慶なのではないでしょうか?だから、「運慶が今日まで生きている」。そういうことだと思います。

確かに、仁王を「呪いの道具」から「作品」とみるようになったのは価値観が変化したに過ぎないかもしれません。でも誰でも運慶になりうるという変化は結果論かもしれませんが素晴らしい奇跡だと思います。夏目漱石は夢十夜が百年後に理解されると言ったそうですが、彼をもってしても「インターネット」は想像できなかったろうと思います。

たった百年で、人のモノに対する考え方や価値観は全く別の生き物のようになります。

明治時代にも「誰しも運慶になりうる」ところまでたどり着いていましたが、やはり運慶になるには難しかったでしょう。いや、今でも難しいのですが、それでも少しは可能性が大きくなったと言えると思います。それもまたインターネットです。インターネットのもう一つの大きな特徴は「つながり」です。これまで出会うはずのなかった全然別の世界の人やアイデアが、インターネットを介してぶつかることで全く新しいものが生まれています。そうすれば、一人の技術では無理でも多くの無名な群集の知恵が集まることで運慶となりうるのではないでしょうか?まだまだ「つながり」は芽が出始めたところですが、「発信」がどんどんできるようになればインターネットにおける暴力性の発散とコミットメントも、よりポジティブな生産性を持って広く社会に訴えかけることができるようになるでしょう。


日本のモノ作り(産業)の特長は、島国らしい「再生産性」だと言われます。

「ソト」の文化を自分の文化の「ウチ」に取り込み、オリジナルにしてしまう。そこでは「日本らしさ」が付与されて「デフォルメ」されている。この特長を最大限に活かせるのがポップカルチャーだと僕は考えています。ポップカルチャーの発信源として不動の地位にいたアメリカを、今日本は追い抜こうとしています。イスラム圏が強くなってきたことも大きな理由にあると思いますが日本の宗教色の薄さ、ケバくない、誰でも親しみやすいデザインが受けているためです。そこで活かせるものとして、はかないもの、微妙なものに感動する日本人の感性はまだ生きていると思います。えーとですね、ちょっと恥ずかしいのですが・・・「アゝ、モノノアハレ!・・・花のつぼみがふくらみ、ほんのりとした匂いをそよ風に感じるのを想い心がふっとふるえる感動に似た気持ち」=「萌え」です。

ポップカルチャーは難しいものではありません。ちょっとしたアイデアでも人々に受ければそれは立派なポップカルチャーです。インターネットが受信と発信が自由にできるようになれば、十二分にポップカルチャーの揺り篭になりうるでしょう。

その変化の兆しとして現れてきているのがキャラクタービジネスの進化だと思います。

インターネット上には、版権のあるキャラクターの個人が描いたイラストや動画が無数にあります。もちろん、著作権法的にはNGなのですが、著作権は親告罪であるために実質的に見逃されている場合も多いです。これこそがキャラクタービジネスの変化の原因で、

というのは、作品の物語が完成していなくてもキャラクターが完成されたものであれば、一般人が勝手に新しい価値を作り出すためにそれで商売が成り立つのです。

実にオプティミズムな発想だと自分でも呆れますが、事実、キャラクタービジネスは著作権法ではうまく対処できない部分も大いにあると思います。


最後に、インターネットの「発信」の可能性を示すモデルとして僕が今注目しているサイトを紹介したいと思います。

動画配信・共有サイトといえば、Youtubeを思い出すと思います。しかし今回紹介するのは別の動画配信サイト「ニコニコ動画」です。

ニコニコ動画はニワンゴが提供している動画配信関連サービスのことで、現在のサービスのバージョンは「ニコニコ動画 (RC2)」です。

ニコニコ動画とYoutubeの違いは、ニコニコ動画が日本語のサイトであること、検索機能が充実していて動画の検索がしやすいこと、そして動画が流れている画面上にコメントをつける機能があることです。この機能によって、視聴者はリアルタイムに動画に対する他の人のコメントを読むことができます。コメント機能の使われ方としてわかりやすいものは「スポーツ観戦」でしょうか。サッカー日本代表のPK戦の動画では、録画された内容でしたが、声援や解説、野次や実況への罵倒まであって大変に臨場感がありました。

コメント機能は他にも、「絵を描いてみた」という動画にアドバイスやダメなところを指摘する、というように「消費者」(観客)の声が「作者」に直接届くという効果もあります。

全く関係のないコメントも、例えば英語の歌がBGMに使われている動画で「英語の歌詞が日本語に聞こえた(空耳)」というものもあり、それだけでブームを引き起こすこともあります。

ニコニコ動画はほかの動画配信・共有サイトと同様に、著作権法に違反する動画も確かにあり、まだまだ多くの課題を抱えています。しかし、このサイトでは「受信」と「発信」が螺旋状に高めあって新しい価値が次々に生まれる、「再生産の加速」が巻き起こっていると感じました。


以上の考察から、現代の運慶が、インターネットがWeb2.0に移行した先で仁王を掘り当てるためのキーワードは「コミットメント」であると、僕は思います。