運慶とWeb2.0(その2) | 陽炎の帯の上へちらりと逆まに映る鴉の影―どーすかΩ

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今日更新しまくってるよね、うん。


さて、つづきです。



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 いわゆる炎上を「祭り」と呼ぶのは恐らく日本だけだと思いますが、「祭り」は1960年代に盛んだった「学生運動」のような一種の装置で「大きな物語」が(例えばアンチ・ウォー。戦争はまず憎むべき存在と考えていいだろう。少なくとも僕の良心は何の反応も示さない。)失われた今、「祭り」へ身を投じることでネット社会において暴力の発散というネガティブな要素を他人とコミットメントしつつ、解消したいと思う人が多いのではないでしょうか。数による安心感があるのかもしれません。

日本人は古くは農耕民族です。農業は一人だとまずできません。だからこそ昔の日本は「家」単位で社会が回っていたわけですが、日本人は「ウチ」と「ソト」を区別する性質を持っています。そして程度の差こそあれ、その性質は現代の日本人の中にも眠っています。

本来人がインターネットに接続するとき、その動機は情報を手に入れたいということでしょう。自分の「ウチ」にない情報を「ソト」のネットに求める。ネット社会のもつ「匿名性」は人々にネットを「ソト」と認識させます。ネット社会の住民は「祭り」に「客」として参加しているのです。少なくとも彼らの認識はそうでしょう。「旅の恥は掻き捨て」という諺があるように日本人は「ソト」では羽目を外しやすい性質をもっています。つまり人々は「ソト」の「祭り」である炎上に「客」として、その行為が社会的に正しいか否か、どころかときにはなぜ炎上しているのかということさえ考えずに、無責任に参加しているのです。

 炎上に参加する人々をTVメディアでは「ネットイナゴ」と呼んでいましたが僕はこの表現は彼らを指す言葉として適切ではないと考えています。というかこのような人々をくくる、しっくりくる言葉はないのではないでしょうか。

なぜなら、「祭り」に参加する人々は共通する意識をもつ一枚岩の団体ではなく、むしろ不特定多数の個人の「砂」であり、さらにバッタが生きるために食べつくすのに対して彼らは個々の炎上にこだわりません。飽きたら自然消滅する、祭りであればなんでもいい。

彼らにとって重要なのは数の勢いのある「祭り」にコミットメントすることだからです。

もうひとつ、ネット社会がいかに「個」に徹しているかわかる例をあげます。

ネット上で使われる言葉に「馴れ合い厨」という卑称があります。

「厨」は中学生の略の中に別の字を当てたもの、転じて中学生のような幼稚な発言、行動をする人という意味で、さらに今ではただの煽り文句になっています。

「馴れ合い厨」は匿名掲示板上でときにはお互いに特定できるように名前をつけて会話する人を罵る言葉です。オフ会(オフラインミーティング)のようにネットの外、現実社会で親睦を深める人間がいる一方でこれほどまでに馴れ合いを嫌う人間もいる。それがネット社会です。ネットは利用人口の増加とともに現実社会のような「個」の多様性をもっているのです。既存メディアはそれを認めたくないようですが、これらの人々を一くくりにするのは危険ではないでしょうか。(TVなどは「一億総白雉化」といわれるほど国民に浸透していたから、新しいメディアに取って代わられるのは自分からは認めたくないのでしょう。)


映画に話を戻しましょう。

運慶の見物に来ていた人々は2ちゃんねらーと理解していいだろうと思います。

キタ━(゚∀゚)!!!!!や漏れ(俺)、詳細キボンヌ(希望)はちょっと古い気もしますが2ch用語であり、「萌え」しか言わない女の人は2ちゃんねらーの模倣・・・と考えていいと思います。(にしてはキターを真似していなかったけど)

ネット社会では基本的に、ネット上で使われる言葉はネットの中でだけ使われるべきで、現実社会では使うのは控えるべきだと考えられている傾向があり、この見物客のような態度は、ネットを利用する人にもそうでない人にも好ましくは思われないでしょう。

見物客が似非2ちゃんねらーであること、そして仮に見物客が2ちゃんねらーを忠実に再現していても、運慶の見物客の持つ匿名性とネット社会の匿名性の間にズレがあることが、僕が違和感を覚えた原因だと思います。


では、監督はそのズレを無視してまで、なぜ見物客を2ちゃんねらーにしたかったのか。

松尾スズキは「第六夜」で、ネット社会のもつデタッチメントの先のコミットメントというねじれの解消法を示したのではないでしょうか。

それは、現実社会に対して現れてきたネット社会というアンチテーゼを受けて、弁証法的に一段高いアウフヘーベン、新しい社会へと昇華させることではないでしょうか。

現在のように

【現実社会】‐デタッチメント→【ネット社会】‐コミットメント→・・・

だと現実の社会から遠ざかる一方ですが、現実社会⇔ネット社会とより高い次元での互換性をもてばネットから社会全体へどんどんアプローチすることが可能になります。

そしてそれはどうしたら実現できるのか。その答えが「仁王像」でしょう。

ネット社会はこれから先、「発信」が誰でも簡単にできるようになっていきます。

受信⇔発信の輪が完成すればネット社会は現実社会とリンクし、我々に無限の可能性を与えてくれると僕は信じています。



つづく