最近、読んでる本はこれです。




仏教の開祖のブッダのお話ですね。



タイトルの「アムリタの門は開かれたり耳ある者は聞け」というのは(耳ある者にアムリタの門は開かれる、ともいうらしい)ブッダが悟りを開いてから布教をしようと決意した時に言った言葉とされます。


アムリタは漢字で甘露と書くようで、甘い露(液体かもしくは果物的な?)ですね。


桃太郎の桃的な昔話に出てくる伝説上の食べ物ですが、この甘露を食べると長寿や不死を得ると古くから信じられていたとのこと。


私の行った修行を実践し悟りを開けば死も怖くなくなる、という例えですね。



この本の面白いところは日本語訳された経典が記されたあと著者がその経典についての注釈を加えていくところ。


しかもとても現実的なのだ。


仏教は好きであるが中には「ウソやろ」というようなトンデモなストーリーがあったりする。


嘘をついてはならないという戒律があるのにだ!


しかし本書ではそのような経典


例えば


シッダッタ(のちのブッダ)が悟りを開くにあたり49日間の禅定をする際身の丈200キロメートル以上の悪魔が大衆を引き連れ、シッダッタの悟りを妨害してきた。


とか


麗しい女性がブッダの弟子をそそのかそうとした際、空中浮遊して回避した。その法力を見せつけられた女性は己を恥じ仏教に帰依した。


など。


一言で言うとあり得ないのだが、これは己の欲深さを表す例えであったり、当時の教えを広く布教するにあたっていかにブッダが優れた人物であるかを説くための比喩で使われていたのではないかというものだった。


なるほど


そうすると辻褄があってくるというかトンデモストーリーのトンデモ部分を「これは何の例えだ?」と咀嚼して考えるとまた捉え方が変わってくる。



あと、ふふ🤭って思ったところは


例えばとある経典の中に


修行中の僧に尼さんが泥水をかけて気を引きつけようとした。この一部始終を見た別の僧がブッダにことの顛末を告げ口した。ブッダは弟子たちを集めて「尼さんは僧に泥水をかけてはいけません」と言った。










おい!笑




なんだこの戒律は🤭


仏教というものは初めから厳しい戒律があったわけでなく、弟子が増えるに従って規律を作っていかないと秩序が保てないからその都度ブッダ自ら制定していったのだそう。


著書いわく、ブッダも細かいことをいちいち定めるのはよしと思わなかっただろうと思う反面、集団をまとめ上げる苦労が見て取れるとのこと。



確かに😅




僕がこの本の中で心に響いた部分が


「自分の言葉で語れ」


というところ。




ブッダが布教していた当時のインドではカーストというものが当たり前に存在していた。


王族には王族の文化や教養があり、庶民には庶民の文化、奴隷には奴隷のという具合である。


その土台をぶっ壊したのが仏教というもので


王族でも庶民でも奴隷でも誰でも仏教の門を叩くことが許された。


すると弟子内でヒエラルキーが存在するようになり、ある王族出身の弟子がブッダに提案した。


「あの奴隷出身の僧がブッダの尊い言葉を奴隷の穢らわしい言葉を使って布教しています。ブッダの教えにキズがつきますので王族の気品ある言葉で統一しませんか」


この提案にブッダは


「愚か者め。皆の衆、ブッダの言葉を王族の言葉に変えてはならん。ブッダの言葉を己の言葉で語れ」


といったもの。





どんなことに対しても学んだことを、教科書通りに読み上げたのでは意味がなく


身につかない。



この場合における王族の言葉を使うなとは、王族出身の弟子に言ったのではなく


「何者にもなるな」とみんなに戒めたのかもしれない。




悟りとは何か


苦しみとは何か



ブッダの言葉でなく己の言葉で語ってみせよ、と。




これは響きました。




優しさとはなにか


おもてなしとはなにか


サービスとはなにか


トリミングとはなにか


生きがいとはやりがいとはなにか


人生とはなにか


おのれとはなにか






何者にもならず、何者の言葉も使わず


おのれの言葉で語ってみせよ。






難しい〜!!