アロマキャンドルにポッとあたたかい火が灯った。うす暗い店内では雰囲気と調和したジャズが流れている。大理石でこしらえた10人ほどが座れる豪華なカウンターのど真ん中に俺は席を取りマスターの作る酒を待ちぼうけていた。マルスウィスキー越百、飲み方はハイボール。一気に煽るときめ細かい泡の大群が喉を刺激し今日1日の疲労が快楽へと変化した。最高のソースは空腹である。これは哲学者ソクラテスの言葉だが、ならば俺はこう言いたい。最高のつまみは疲労感であると。そうは言っても実は今日はそんなに疲れが溜まっているのではない。普段は頑張った自分へのご褒美としてこうやって仕事後に参上つかまつる訳だが、今日は昨日ケンカした妻と顔を合わせたくないという思いから時間を潰すためやって来た次第だ。頻繁にこそ行かないが、1人でも気軽に扉を開けることのできるこのバーは、もはや俺にとって行きつけである。

ハイボールを飲み干し、2杯目はタンカレーNo.10、飲み方はジンバック。辛口のジンジャーエールにすり下ろした生姜がグラスの上に乗っている。辛味のある飲みごたえだ。キンキンに冷えているはずなのに体は妙に熱ってくる。時刻は20時、お客さんが入るにはまだ早い時間帯だ。閑散とした店内でマスターと2人きり、俺は酒が体に染み込むのを感じながら昨夜のことを思い出していた。

マスターは俺の顔を覚えてくれていて、俺が2杯続けて炭酸割りを飲むことを珍しいと感じたのだろう。勘の鋭いマスターは「今日はここにくること、嫁ちゃんには伝えてるのかい?」と尋ねてきた。「いやー、実は昨日ケンカしちゃってあんま早く帰りたくないんすよねえ」と答えるとマスターはからりと笑った。「ま、そういう時もあるさ」マスターは穏やかにそう呟きグラスの手入れを始めた。

3杯目は越百のロック。非常に飲みやすいウィスキーだ。ここだけの話だが俺は今、院長先生のキープボトルを飲んでいるのだ。あまり調子に乗って飲むとまた空にしてしまうので注意が必要である。(以前、未開封のボトルを3人で空にしてしまったことがあった。でもあれは本当に美味しかった。)「マスターも奥様とケンカくらいするでしょ」と聞くと「怒られることはあるけどケンカはそんなにないかなぁ」という。

「さてはマスターも尻に敷かれるタイプすね」

「そゆこと」

俺はケラケラと笑って心の鬱憤が流れ落ちるような感じがした。マスターは「嫌なことはここに置いていきなさい」という。仕事で嫌なことがあったとき、家庭でギクシャクしたとき、何か辛いことがあった時はバーに行って美味しいお酒を飲めばいいのだ、と。そうすれば少しすっきりして家に帰ることができるだろう、と。俺はマスターのこういうところが好きでずっと聞いていたくなるのだ。とても居心地が良いのである。「気持ちが落ち着いたら嫁ちゃんに何か美味しいものでも買って帰ったらどうだい」とマスター。「まぁ、そうすね」と気のない返事をする俺。俺は既に妻に対する怒りのピークは過ぎており、怒ったことに対する気まずさと仲直りするということのむず痒い思いを抱いていた。そんな俺の思いを汲み取ったのかマスターは「男は仕事やバーに逃げることができるけど女性は家を出ることができないからねぇ」と言った。「主婦は24時間働きっぱなしだからさ、多少言葉が尖ったりすることもあると思うよ。でもこうやって健康に仕事を続けられるのは嫁ちゃんのおかげじゃない。バカな男は給料もらっても俺が稼いできたなんて言うけどさ、本当におこがましいよね」マスターは遠回しに俺を諭そうとしている。俺の肩を持ちつつも、やはり俺は独りよがりでありきちんと妻に謝った方がいいと言ってきているのである。何を買って帰ろうか。そんなことを考えながら俺は4杯目のロックを空にしていた。

電車に揺られ頭がぼーっとしてきた。どうやら飲み過ぎたようだ。

手に引っ掛けたビニール袋の中にはコンビニで買ったスイーツが入っており、電車と連動して振り子運動をしている。

あまり高価なものではないが今回のケンカはこれで手打ちといこうじゃないか。

万歳、ディオニス万歳。

家につきスイーツを冷蔵庫にしまい、しんとしたリビングを抜けトイレに向かう。

勇者は、ひどく嘔吐した。