今年1月から京都に避難し、3月から4月にかけては、福島と京都をいったりきたりの日々、入学式に、福島と京都で参加しなければならず、やっと落ち着きました。
といっても気持ちは福島にいる時とは変わりません。

京都の人達はみんな、いろんなところで助けてくださって、そして避難者同士でも、繋がり続けています。

こちらに来てから、みんなに意識してもらうため、そして自分自身も意識を継続するために、AntiAtom-T-Shirt-Projekt(http://ameblo.jp/katrinjp)と、市民測定所(http://nukecheck.namaste.jp)のお手伝いをしています。


だいぶブログをお休みしていましたが、コメントを書いて下さった方ありがとうございます。

当時を振り返りながら、思い出しながらある場所に記録を残していました。

震災から一年が過ぎました。

あの頃はなにも考えていませんでした。
原発事故が起きて私達の身になにか起こるとも全く思ってもいませんでした。

今私がこうして「避難」という選択をしたことで、家族は理解してくれていることが、正直不思議な気持ちでいます。
「福島人」さんがおっしゃるそのままの言葉を、家族に言われていました。
確かに周りに迷惑をかけたことがあったかもしれません。職場にも友達にも学校にも…でも私は間違ったことを出来る限り伝えていました。それこそあたしのほうが「大丈夫?」と思われていました。「正しい選択」は避難をしてもしなくてもその人がどっちを選ぶかだけでどっちも正しいと私は思います。福島の人がなにもしてないと言っているわけじゃありません。間違ってるのは私達じゃなくて国や東電です。でも私達だってそれを黙認してきたわけです。彼らの中にも苦しみながらやっている人もいることも知っています。間違ったことを「間違っている」と声を上げられないから苦しんでいる人がたくさんいるんです。だから知った人から動いてゆく他ないと考えています。子どもを「振り回す」と捉えてしまい動けなくなることも充分解った上で家族とも何度も話してやっぱり避難できるならしたほうがいいと、親達も言ってくれました。海外に単身赴任する旦那とも何度も話し、私の考えを伝えていました。旦那は、俺は動けないけど、避難できる場所があるうちは、福島を離れていたほうがいい、やってみるしかないだろと、お前は仕事に執着しすぎるな、子どもの将来を考えて、それを優先できるなら避難してみるほうがいい…と言ってくれました。
子ども達もたくさん悩ませました。誰だって離れたくありませんし私がそうでしたから。でも子どもも理解して、受け入れて転校、避難先では今は友達も出来て思った以上に楽しく生活していることに、ホッとしています。長女や私は行ったりきたりですが、決して私のストレス解消なんかではないということを、家族が理解してくれていました。私はこれからも福島に戻るための何かが出来たらと考えていきます。
京都に避難を決めました。

もっともっと先に避難させたい人達はたくさんいる。
でも我が子は自分しか守ってやれる人間はいないこと。
私はそれをまずやらなければいけないのに、今まで引っ張ってきてしまいました。
子ども達4人それぞれを避難させるための転校手続き、避難先の手配、自分の仕事の引き継ぎ…何度も何度も振り返りながら、これでよかったんだろうかと、悩みながらここまできました。

震災がなければ、こんなことにはならなかったのに、私はあれから自分の性格がまるで豹変したかのように、生活までも変わってしまいました。

冷静に考えているうちにこんなに時間が経ち、何故もっと早く避難しなかったんだろうと後悔もしています。

でもそうなるまでの過程が私には必要だったみたいです。
福島から動くつもりなど元からありませんでしたから。
ずっと福島にいて、子どもを守れるならば守りたかった。でもやっぱり無理なんだと解りました。
受験を控えた長女は全く避難する気はなく、福島の高校を受けるつもりでいます。

それをどううけとめたらいいかずっと悩んでいましたが、頭が痛いのはきっと娘の方…私は娘の意志を優先しました。

いつでも京都に行けるようにしておいてあげようと思いました。

子ども達は保育所の頃からずっと同じメンバーで、1クラスしかない環境で育ってきました。
今の年になれば、反抗的で思春期で彼もいたりする娘なので、なかなか親の言い分を聞く体制にはなれません。

子育ては難しいと、つくづく思いましたが、今回のことで、多感な時期に娘と向き合うことが出来たことは、良かったのかもしれません。

素直になれない私もいましたが、きっと将来娘は理解してくれると信じて、私も娘を信じようと思いました。