僕は茉莉子さんと一緒にアパートを出て歩き始めた。
夜空には星が見えていた、そして月も見えていた。

「極楽か地獄か 先の有明の 月の心にかかる雲なし」
「鈴原、なにそれ?」
「上杉謙信の辞世の句だよ。皆、戦国武将というと
織田信長とか豊臣秀吉が好き、と言う。僕も織田信長は好きなんだけどね。謙信の方が好きなんだ。
僕の親父は武田信玄が好きでね、酒を飲むといつも
武田信玄の話しをする。そして、謙信ファンの僕と
川中島の戦いで論議になる。
川中島の戦いは前半謙信の勝ちで後半信玄の勝ち、
親父はいつも最後に勝った方が勝ちだと言う。
でも武田軍に対し上杉軍は八千人位少なかったんだよ。僕はいつもそれを言って親父と口喧嘩になる。」
「辞世の句はどういう意味なの?」
「自分は死んで極楽に行くのか地獄に行くのか分からない。でも今の自分の心は雲ひとつない月のように
晴れやかである、という意味。上杉謙信は義に生きた人、自分の領土も必要最低限にしか広げなかった。
上杉謙信は戦乱の世に美しい流れを作りたかったんだと思う。僕はそんな謙信が大好きなんだ。謙信は生涯で二度しか負けていない、ひとつは引き分けに近い。
僕は謙信は1番強かった戦国武将だと思ってるよ。」
「鈴原にそんな趣味があるなんて知らなかった。」

僕のアパートに着いた。
共同玄関で靴を脱ぎ階段を登り、1番奥の部屋が僕の部屋だった。
僕の部屋は1番端にあったため、隣の部屋は片側にしかなかった。
ドアを開けると四畳半の和室があり、続いて三畳の和室がある計七畳半の部屋だった。
四畳半の和室と三畳の和室は襖で仕切ることが出来た
僕は手前の四畳半をリビングにして奥の三畳を寝室にしていた。 
手前の四畳半に少し狭いキッチンがあった。

「四畳半と三畳の続き間を襖で仕切れるなんていいわね。女のポスターはなしか、確かに片付いてるわね。
でも、鈴原、隅までちゃんと掃除してないから、ほらここ、埃が溜まってるよ。
それよりお布団干してる?」
「干してない。」
「お布団干さないと身体に良くないから、ほらここの窓のベランダから1週間に1度は干すのよ。
私と同じくらい古いアパートね、あれ?
鈴原の部屋の窓ってサッシじゃないの?」
「そうなんだよ。だから雨戸が付いてる。」
「私、雨戸って見たことない。」

僕は雨戸を出して茉莉子さんに見せてあげた。
茉莉子さんは興味深そうに見ていた。

「鈴原、冷蔵庫にカルピスがあるじゃない。作って飲んでもいい? 私、好きなのよ。鈴原の分も作るから」

茉莉子さんがカルピスをコタツ兼用の台に持って来てくれた。

「茉莉子さん、この画集を見て。東山魁夷さんの画集なんだ。」
「鈴原、絵を見る趣味があったの?」
「僕は絵のことはよく分からないけれど、東山魁夷さんの絵は好きなんだよ。東山魁夷さんに人物画は殆どない。風景画ばかりだよ。
この二つの月という絵を見て。」
「素敵な絵。空の月が湖に映っていてふたつある。
でも私、次のページの絵の方が好きだなぁ。これ、
桜の木でしょ?」
「東山魁夷さんの代表作のひとつ花明りという絵だよ夜の月の明りに照らされた満開の桜の木の絵。」

茉莉子さんは花明りの絵をずっと見ていた。

「茉莉子さん、この絵を見て。東山魁夷さんの最高傑作の唐招提寺の襖絵。東山魁夷さんはこの絵を完成させるのに7年も費やしたんだ。」

茉莉子さんは、凄い、と言ったまま見つめていた。

僕は、もう一つの画集を持って来た。
白い馬の見える風景、という画集だ。

「茉莉子さん、この絵を見て。緑響く、という絵。」
「素敵な絵!」

緑響くはテレビのCMでも使われたことがあるので
ご存知の方も多いと思うが、緑の森を背景に池の畔を1頭の白い馬が歩いている絵だ。
上下が湖を境に対照となっていて、上半分の絵の下に上下逆の絵が池に映っている絵だ。

「この池は実際に長野県の茅野市の奥蓼科にある農業用の人口の溜池なんだよ。溜池と言っても自然の池みたいだけどね。」

*この溜池の名前は御射鹿池と言い、現在は観光スポットとなっていて、観光バスも停められる駐車場も整備されている。

「そこに白い馬がいるの?」
「いない。東山魁夷さんはこの絵を描いている時に
池の畔を歩く1頭の白い馬が見えたと言っている。
東山魁夷さんはその後、いろんな風景を描いている時に、白い馬が見えるようになった。
白い馬がいる風景画だけを集めたのがこの画集。」

茉莉子さんはゆっくりとその画集を見た後、
私は緑響くが1番好き、と言った。

「茉莉子さん、夏休みに見に行こうか? この絵の
モデルとなった御射鹿池。」
「ありがとう、連れてって。」
「茉莉子さん、ジョンレノンの話しって?」
「私、ジョンレノンの写真が載っている雑誌を持って来たの。この写真を見てジョンレノンが大好きになった。鈴原も見て。」

その写真は、ジョンレノンが産まれたばかりの息子さんのショーン君をおんぶ紐でおんぶして、買い物袋を持って、奥様のオノヨーコさんと歩いている写真だった。


つづく