有名な話しですよね?
トルコが日本に百年越しに恩返ししてくれて
沢山の日本人が助かった話し
その恩返が
イラン・イラク戦争の只中での日本人救出劇





『エルトゥールル号の話し』
明治23年9月16日、和歌山の熊野の海は、朝から風雨が激しく荒れ模様でした。
午後9時ごろ、灯台守が、爆発音を聞きつけます。そのとき、進退の自由を失った木造の軍艦が、大波に翻弄されながら
灯台下に流されてきていました
岩礁に乗り上げた船は真っ二つに裂け、大爆発が発生
この爆発音を灯台守は聞いたのでした
午後10時半頃、その木造の軍艦は沈没。
乗組員は海に投げ出されました。
一部の乗組員は、艦の破片にすがって3時間ほど漂流し
灯台に助けを求めたのでした。
灯台守はこの人を見て驚きました。というのも、顔から血が流れ
全身は傷だらけだったからです。言葉が通じない上に混乱状態の中
万国信号書を見せてやっとトルコ人であることがわかりました。
身振りで、多くの乗組員が海に投げ出された
こともわかると
灯台守は考えました
「この乗組員たちを救うには人手が要る、樫野の人たちに知らせよう
そして灯台からいちばん近い樫野の村の人たちに急を告げました。
この当時、樫野には約50軒の家があり
船が遭難したとの知らせを聞いた樫野の男たちは、嵐の中を総出で岩場の海岸に下りました。
夜が明け始め、海面のおびただしい数の遺体に村の男たちの胸は張り裂けそうになりました。
嵐の夜半、通信手段も救助のための機材も満足になく
何の方策もたちませんでしたが、あり合わせの着物を着せ
傷の治療をしながら夜明けを待ちました。
この船の乗組員は650名。生存者69名。船の名は「エルトゥールル号」
生存者は急造の担架で樫野のお寺と小学校に収容
乏しい村の食料は遭難者のために一夜にして底をついてしまいました
それにもかかわらず村民は遭難者のために
蓄えている食料のすべてを喜んで提供したのです。
村民は、生まれて初めて見る外国人を、どんなことをしても助けてあげたかった
また、亡くなった人を丁寧に葬りました。
このエルトゥールル号遭難の報は、和歌山県知事に伝えられ
そして明治天皇に言上されました。明治天皇は、直ちに医者、看護婦の派遣をなされ、さらに礼を尽くし
生存者全員を軍艦「比叡」「金剛」に乗せて、トルコに送還なされました






これが本来の日本人だとわたくしは信じてます
トルコが日本に百年越しに恩返ししてくれて
沢山の日本人が助かった話し
その恩返が
イラン・イラク戦争の只中での日本人救出劇





『エルトゥールル号の話し』
明治23年9月16日、和歌山の熊野の海は、朝から風雨が激しく荒れ模様でした。
午後9時ごろ、灯台守が、爆発音を聞きつけます。そのとき、進退の自由を失った木造の軍艦が、大波に翻弄されながら
灯台下に流されてきていました
岩礁に乗り上げた船は真っ二つに裂け、大爆発が発生
この爆発音を灯台守は聞いたのでした
午後10時半頃、その木造の軍艦は沈没。
乗組員は海に投げ出されました。
一部の乗組員は、艦の破片にすがって3時間ほど漂流し
灯台に助けを求めたのでした。
灯台守はこの人を見て驚きました。というのも、顔から血が流れ
全身は傷だらけだったからです。言葉が通じない上に混乱状態の中
万国信号書を見せてやっとトルコ人であることがわかりました。
身振りで、多くの乗組員が海に投げ出された
こともわかると
灯台守は考えました
「この乗組員たちを救うには人手が要る、樫野の人たちに知らせよう
そして灯台からいちばん近い樫野の村の人たちに急を告げました。
この当時、樫野には約50軒の家があり
船が遭難したとの知らせを聞いた樫野の男たちは、嵐の中を総出で岩場の海岸に下りました。
夜が明け始め、海面のおびただしい数の遺体に村の男たちの胸は張り裂けそうになりました。
嵐の夜半、通信手段も救助のための機材も満足になく
何の方策もたちませんでしたが、あり合わせの着物を着せ
傷の治療をしながら夜明けを待ちました。
この船の乗組員は650名。生存者69名。船の名は「エルトゥールル号」
生存者は急造の担架で樫野のお寺と小学校に収容
乏しい村の食料は遭難者のために一夜にして底をついてしまいました
それにもかかわらず村民は遭難者のために
蓄えている食料のすべてを喜んで提供したのです。
村民は、生まれて初めて見る外国人を、どんなことをしても助けてあげたかった
また、亡くなった人を丁寧に葬りました。
このエルトゥールル号遭難の報は、和歌山県知事に伝えられ
そして明治天皇に言上されました。明治天皇は、直ちに医者、看護婦の派遣をなされ、さらに礼を尽くし
生存者全員を軍艦「比叡」「金剛」に乗せて、トルコに送還なされました






これが本来の日本人だとわたくしは信じてます