平原遺跡(一) 福岡県糸島市有田、平原二番地 | ドリップ珈琲好き

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国史跡―曽根遺跡群

平原遺跡

 

平原遺跡1号墓(国史跡―曽根遺跡群)

平原遺跡1号墓は、1965(昭和40)年、植樹溝の掘削時に大量の鏡が出土したことから発見され、故・原田大六氏らによって緊急的に発掘調査が行われました。墳丘は全て失われていましたが、割竹形木棺を主体部にもつ方形周溝墓であることが確認されました。棺の内外からは、ガラス製や石製の玉類、鉄製素環頭大刀などとともに、計40面もの青銅鏡が出土しました。うち5面は直径46.5mの内行花文鏡で、これらの出土品は全て国宝に指定されています。
中国の史書、三国志の魏志倭人伝には、伊都国には歴代の王がいたことが記されており、平原遺跡1号墓は最後の伊都国王の墓であると考えられます。
調査主任であった原田大六氏は、周溝とその周辺から検出された対になる柱穴を鳥居状の構築物の痕跡であると考えました。一の鳥居は被葬者を拝するとともに日向峠を遥拝し、二の鳥居は高祖山を遥拝するものであり、古代の人々が両者を神聖視するとともに、飯場峠から高祖山北麓に移り変わる日の出の位置により農事に関わる観測が行われていたとも考えました。なお、原田大六氏により井戸とされていた遺構は、その後の調査で祭祀に用いる大柱を据えたものと考えられています。
糸島市役所 文化課

 

平原弥生古墳
ここはかつて塚畑と呼ばれていました。
井出信英さんが農作業中に、突然、多量の銅鏡片などが出土。昭和40年(1965)1月のことでした。さっそく2月~5月にかけて前原在住の考古学者原田大六氏を調査主任として発掘調査が進められました。
驚きの発見の中で、特に注目を集めたのが、39面にのぼる銅鏡群でした。さらに、日本最大の白銅鏡については、原田大六氏は伊勢神宮の御神体である八咫鏡(やたのかがみ)と考察されました。それは後漢尺で測ると直径2尺(46.5㎝)、その周囲は八咫(145㎝)の寸法を持っていること、さらに「延喜式」や「皇大神宮儀式帳」に記された八咫鏡を納めた「樋代(ひしろ)」の寸法が平原大鏡の径に近いこと、「御鎮座伝記」記載の鏡の特徴が「八頭花崎八葉形也」から平原大鏡こそ伊勢神宮の「八咫鏡」と同型鏡であると結論づけられました。
さらに、原田大六氏は墓の副葬品に武器が少ないこと、装身具が多いことなどから被葬者を女性と推定され、そして、鏡・大刀・勾玉という「三種の神器」が副葬されていたことから「天照大神」(神格名・大日孁貴:おおひるめのむち)の墓であると確信されました。
伊都国こそ「天皇の故郷」とする原田大六説の根拠は、ここ平原弥生古墳で見つかった「三種の神器」が東遷して大和に至ったと推測されたものです。
なお、この遺跡の発掘調査報告書は、原田大六著「平原弥生古墳 大日孁貴の墓」として発行されています。

 

 

 

国指定史跡 曽根遺跡群 平原遺跡
昭和57年(1982)10月4日指定 平成12年(2000)9月6日指定
昭和40年(1965)と昭和63年~平成11年(1988~1999)に発掘調査され、弥生時代中期初頭の竪穴住居跡7棟、壺棺墓1基・木棺墓4基、弥生時代後期の墳丘墓3基・大柱遺構3基・特殊建物跡1棟・古墳時代前期の円墳2基・土壙墓12基・時期不詳の掘立柱建物3棟などが発見された。
このうち、弥生時代終末期の1号墓は14m×10.5mの長方形上の平面形で、幅1.5m~3.0mの周溝で区画し、排水溝を持った墓である。主体部である広さ4.5m×3.5mの墓壙中央には長さ3.0m、幅0.7m~0.9mの割竹形の木棺1基が納められていた。棺の内外から銅鏡40面、ガラス勾玉3点・管玉30点以上・連玉886点・丸玉約500点・小玉482点、メノウ管玉12点、ガラス耳璫(じとう)2点、水銀朱、鉄製素環頭大刀1本などが出土した。
特に直径46.5㎝の古代で世界最大の超大型内行花文鏡5面を含む銅鏡などの豊富な副葬品から、1号墓は巫女的な性格をもった伊都国の女王墓と推定される。
なお、超大型内行花文鏡を八咫鏡として「日本書紀」などにみられる大日孁貴(おおひるめのむち)の墓と考える原田大六先生の説がある。          前原市教育委員会