吉備真備(一) | ドリップ珈琲好き

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吉備真備 きびのまきび (一)

 

 学者であり政治家でもあった吉備真備は、奈良時代屈指の著名な人物でありながら、彼に関する直接資料はほとんどない。しかもその生涯には華々しい躍動はなかったけれども、穏健な人柄と、再度の入唐によって得られた該博な学識とは、権謀術数渦巻く平城政界にとって一服の清涼感であった。

以上 人物叢書(吉川弘文館)裏表紙の人物紹介より

 

 奈良時代といわず、国史の中でも著名な学者・政治家としての吉備真備については、不思議なことに直接資料がほとんどない。『続日本紀』がその主要なものであって、『正倉院文書』などのもほとんど見当たらない。「道鏡」の自署はあるが、真備のは未見である。著書にしても、その一部分が伝えられるに過ぎない。それも原本ではなく、他書に引用されて残った僅かの残片であるに過ぎない。高名天下に轟く真備であるにも拘わらず、この人に関する研究があまりない。

以上 人物叢書(吉川弘文館)「はしがき」より抜粋

 

 吉備真備は、本当に真面目な、文字通り穏健な人であった。この人は政治家としては極めて地味であって、華々しい活動をしない。それは功績がないというのでは断じてなく、改革や変動に不向きであったということである。地方に出自をもつ下級官人の子として生まれた真備の真備の入唐留学中のことはよく分からないが、恐らくは孜々として学んだ。それも多方面にわたって天文や音楽にまで及んだのであるが、詩文の方にではなく、いわば実学の方に力を注いだと思われる。その中核をなすものは儒学と軍楽であったらしい。帰朝した天平七年には既に齢、不惑を越えていた。橘諸兄に信用され、玄昉と共に立身を続けたが、途中、藤原広嗣に指弾された。藤原仲麻呂(恵美押勝)には嫌われたらしい。筑前守に左降され、十年以上もの間、九州生活を送った。その間に遣唐副使として再度入湯したが、官は太宰大貮に止まる。この間に『道璿和上伝纂』を書いている。社会的・政治的に著しい行績を残した行基や鑑真についてではなく、むしろ隠遁的な道璿に近づきその伝を書いている点が面白い。

以上 同じく人物叢書(吉川弘文館)「はしがき」より抜粋

 

吉備大臣入唐絵巻摸本(現品、ボストン美術館蔵)吉備真備の入唐説話を題材にした絵巻

 

真備の出自

 

持統天皇九年(695年)

備中国下道郡也多郷(八田村)土師谷天原(岡山県倉敷市真備町箭田)

 

『続日本紀』巻三十三、光仁天皇宝亀六年(七七三)十月壬戌(二日)吉備真備の薨去の条に、その略伝を掲げて、右衛士少尉下道朝臣国勝の子、と書き始めているのでわかるように、真備はもと下道朝臣であって吉備朝臣ではない。吉備朝臣の姓を賜わったのは天平十八年(七四六)十月丁卯(十九日)の条に、「従四位下下道朝臣真備に姓吉備朝臣を賜ふ」とあって、吉備真備と称するのはこの天平十八年以後である。(この天平十八年十月、真備の官は皇太子学士・春宮太夫である。)

 

その名に真備・真吉備の二様の書き方がある。大日本史巻百二十三吉備真備伝の原注に、『続日本紀』一本には、景雲元年・宝亀元年・延暦十年ともに真備とあり、また、『類聚国史 奉献部』『類聚三代格 弘仁十一年(七月九日)官符』『公卿補任』『松浦社縁起』藤原広嗣上表に真吉備とあって真備でない、といってある。また、『日本紀略』は真吉備に作り、『正倉院文書』にも真吉備としている。真備・真吉備のどちらが正しいか定め難い。

以上、人物叢書(吉川弘文館)第一、真備の出自の項より抜粋

 

学問で身を立てた、菅原道真の先輩

 古代日本の貴族社会において、家柄ではなく学才によって大臣まで登りつめた人物と聞けば、誰もがまず菅原道真を思い浮かべることだろう。しかし、じつは道真よりも前にそんな出世を成し遂げていた先輩が一人だけいる。吉備真備である。

 真備は吉備地方(岡山県・広島県東部)の豪族吉備氏から分かれた下道氏の出身で、天平十八年(七四六)に吉備朝臣姓を賜わるまでは下道真備という名であった。父の下道國勝は、地方豪族の子弟から舎人(天皇・皇族に近侍する下級官人)として中央に出仕し、下級武官の右衛士少尉を務めたという。また、母は楊貴(八木)氏の女性と伝えられ、二人の間に真備が生まれたのは持統九年(六九五)のことであった。

 少年期の真備に関する記録はないが、下級官人の子として十五歳前後で大学寮に入り、六年ほどの過程を経て省試(管理人用試験)に及第するコースを歩んだと考えられている。そして、当時から学才に優れていたのだろう、霊亀に二年(七一六)真備は入唐留学生に選ばれ、翌養老元年(七一七)、二十二歳で僧玄昉らと遣唐使に随行して唐に渡った。唐では、儒学のほか、天文や兵学、音楽なども学んだという。

 その後、真備が日本に帰って来たのは天平七年のこと。年齢はすでに不惑に達していた。帰国後は、大学助(大学寮の次官)や中宮亮(皇后の世話に関する役所の次官)を歴任。そして、天平九年、天然痘の流行による有力貴族の相次ぐ死を受けて、橘諸兄が国政の実権を握ると、真備は、留学仲間の玄昉とともに諸兄に重用され、政権のブレーンとして活躍知るようになった。天平十二年には諸兄政権に不満をもつ太宰大弐藤原広嗣が九州で反乱を起こし、朝廷に真備と玄昉の排除を訴えているが、それほどまでに当時の真備は、中央政界で重きをなしていたのである。なお、広嗣の反乱は朝廷側の迅速な対応によってすぐに鎮圧された。

以上、消えた古代豪族とその後(株式会社洋泉社歴史REAL編集部編)より