菅原道真息女・悲運の紅姫を祀る
紅姫稲荷神社 べにひめいなりじんじゃ
紅姫稲荷神社縁起
昌泰四年(九〇一)、菅原道真公が、左大臣藤原時平の讒言によって右大臣の地位から大宰権帥に左遷され、京都をご出立の折、御奥方が病床にあられて、父子の別れを悲しみ慕われる幼い紅姫様と熊丸君を不憫に思し召された公は、お二人を伴って大宰府へ下られました。
西下の途中も、公に対する時平の圧迫は厳しく、配所では、井戸水は涸れ雨漏りのする陋屋(ろうおく)を宛てがわれ、わずかな給金で三度の食事にも事欠く日々を送られました。その上、謫居(たっきょ)の周辺には、時平の差し向けた刺客が絶えず公をねらって徘徊していました。
このような苦難のさなか、翌年秋に熊丸君が夭折され、数月後に京都の御奥方がご他界、さらにその悲報が舞い込んだ十日後の延喜三年二月二十五日(九〇三)には、持病に苦しんでおられた道真公が薨ぜられて、幼弱な紅姫様お一人が大宰府の地に取り残されました。お弔いを済まされた姫君は、亡き父君から託されていた密書を四国高知に流謫中の長兄、高視卿に届けるため密かに大宰府を旅立たれました。
これを怪しんだ藤原氏は執拗に姫君を追跡しました。紅姫様は追手を避けて人里離れた若杉山麓の当地に御身をひそめられ、山上に鎮まる糟屋一の宮、若杉太祖神社に御守護を祈願されましたが、藤原氏の探索は熾烈をきわめ、この場所もいつしか刺客に探知され、ついにその凶刃を浴びて非業の最期を遂げられました。
今を去る一千余年前の小中庄時代から、地元の人々は、紅姫様のご悲運を憐れんで山崎の当霊地に祠を建立し、その御霊を稲荷神として世々お祀りしてきました。昭和二十七年、隣接の地に日蓮宗妙紅山蓮照寺開山されたご縁を以て、爾来、稲荷祀の祭祀は同寺の主宰によって懇ろに執り行われることになりました。昭和五十一年に、蓮照寺第二世、武内曜幸師と同寺檀信徒の御協力によって紅姫稲荷社殿が造営された折、祠の御神霊は拝殿に遷され、「最上位山崎紅姫天王」の尊号が奉られて、そのご神徳は魏々として八方に普く、今日に及んでいます。
因に、菅原道真公は若年の頃から天台宗を信仰され、法華経を法典として誦されましが、公の御息女、紅姫様ゆかりの当霊地に日蓮宗蓮正寺が開山されました。
平成十四年二月吉日日蓮宗妙紅山蓮照寺
以下は太宰府市朱雀6丁目・榎社にある紅姫供養塔
紅姫供養塔