大宰府政庁 福岡県太宰府市観世音寺4丁目6−1 | ドリップ珈琲好き

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主な記事  ①神社 ②書下ろし「秀吉と名乗った男」「徳川末代地獄の争乱」「末裔界からの来訪者」「理想郷の総理大臣」

歴史と憩いの調和した

大宰府政庁

 

 ここは日田街道と太宰府天満宮への参詣道の分岐点です。

 この鳥居は一の鳥居ともよばれ、福岡側から来た太宰府天満宮参詣者が最初にくぐる鳥居です。

 文久2(1862)年、第11代藩主黒田長溥によって建立されたもので、潮井台もその時に造られました。

 鳥居の傍らにある石碑のうち、細長い玄武岩製の道標は、元禄4(1691)年に建てられた市内で最も

古い道標で、「是よりだざいふ参詣道」と刻まれています。方柱の道標には、「天満宮 従是二十五丁」

(約2.7km)とあり、正面中央上部には梅鉢文が彫られ、正面や側面には、菅原道真没年から850年

と900年にあたる宝暦2(1752)年と享和2(1802)年の刻銘もあります。また、常夜灯は、九百年

大祭にあわせて建立され、戦前まで毎晩火が灯されていたそうです。

 鳥居をくぐり、身を清めた人々は、参詣道沿いの都府楼跡や観世音寺を見ながら天満宮を目指します。

 

 

 

 

 

 

 

 はじめに

 ようこそ古都大宰府へ。四季の彩りが美しい四天王寺を望むこの場所は、

万葉集にも詠われているいにしえの西の都の跡です。

 「遠の朝廷」として、繁栄を誇った大宰府も平安時代末頃(約900年前)にはその役割を終え、

田畑と化してしまいました。

 ところが、昭和30年代から、歴史的価値を持った貴重な遺跡として、ふたたび脚光を浴びることになりました。

 ここで、みなさんに古都大宰府が歩んできた保存への道のりを簡単に紹介し、大宰府理解の一助にしていただければと思います。

 

 保存の歴史

 大宰府後の保存は、江戸時代に福岡藩(黒田家)が行った建物礎石の調査に始まります。明治、大正、昭和と時代が変わっても、保存の精神は継承され、大宰府を顕彰する石碑が建てられたり、簡単な保存整備が正殿跡を中心に行われてきました。

 昭和30年代後半、この地が福岡市に近く、住宅地に適していることもあって、大規模な宅地開発の計画が持ち上がりました。開発の波から地下に眠る文化財を守るため、文化財保護委員会は指定区域拡張の方針を示し、保存に乗り出します。ところが地元は自分たちの生活と深くかかわりにのある問題として慎重な態度を示します。昼夜を問わず行政との話合いが続けられ、やっとのことで指定区域拡張に対する理解と協力が得られるました。

 それからもう30年余りの歳月が経ちました。この間、発掘調査と保存整備が地域の人々と共に進められ、今日に見る大宰府の姿ができあがりました。

 

 大宰府のこれから

 文化財の保存は、人とのかかわりをぬきにして語ることはできません。地元をはじめ、

いろんな人たちの苦労と努力が刻まれている古都大宰府も同じことだと言えます。

 これからもみなさんと共に大宰府のこれからを考えていきたいと思います。

 

 

 

 

 

 

 左から大宰府址碑、都督府古趾碑、大宰府碑 (これらの解説は後日・・・・・・)