高橋鑑種(2/2) | ドリップ珈琲好き

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豊後国大友氏の庶流萬田氏の一族

高橋鑑種

 

 だが宝満城はついに落城、鑑種は実家のとりなしで一命を助けられ、所領没収のうえ豊前小倉へ移された。なぜ宗麟が毛利領の小倉に危険人物の鑑種を移したのかその理由もいろいろあって一定しない。

 かれはここで初代小倉城主となり、秋月種実の子元種(一説に弟)を養子に迎え香春岳(田川郡香春町)城に在城させる。鑑種は剃髪して宗仙と号して大友に対して表むき恭順の意を表したが、天正六年(一五七八)大友家が耳川で島津軍と戦って敗れると、再び豊筑の掌握にのりだす。 

 その後、彼は、京都郡簑島で大友方についた毛利の将杉重良を討ち、田川一郡を切り取り、馬ヶ岳を攻略、種実の次弟種信を入れて小倉の名家長野氏を継がせた。しかし大酒家であった彼は、ついに戦陣で倒れず病に倒れ、小倉在城十年にして天正七年四月二十四日、波乱の生涯を終えた。享年五十歳。

 さて総合博物館で係の人が(筆者・吉永正春氏に向けて)ひろげる全文字五十字、漢文で書かれたこの文面を見た筆者は初めてこの世で見る四百年前の遺書に凝然として、釘付けになった。

 読み下しをすれば次の通りである。

 

 「豊筑の諸家、左にたん(祖)せんか右にたん(祖)せんか、両端を模稜するのみ。大将旗を靡かすれば即ち掌握に帰す。四老劉を安んぜんか、劉を滅せんか。老や、よくよく此れ吟味希う処に候。  高橋三河守鑑種」

 

 左につき、右について一定しない豊筑諸家に対し、大蔵一門が主導権をとり、大将の旗振りをすれば、きっと諸家を掌握することができる。四人の老臣たちよ、栄光ある劉(漢の高祖、劉邦からの家系をさす。大蔵一門だけにしかわからぬ言葉)の家を安泰させるか、滅亡させるか、よくよく考えてもらいたい、という意味。

 さすがに体力の衰えを感じさせる筆の跡であったが、格調高い文面は豊筑の野に、大蔵国家を築かんとした壮大なロマンの中に散った男の遺書にふさわしいものだった。

 筆者(吉永正春氏)はこの目で、しっかと見た”鑑種置き文”の言葉を脳裏に反すうしながら黙然と宿舎に向かった。

 

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大蔵氏(おおくらうじ)は、「大蔵」を氏の名とする氏族。

渡来氏族の東漢氏・秦氏のうち、国庫である「大蔵」の管理・出納を務めた者がその職名を氏の名として称したという。

数流あるが最も著名なのは古代・中世に九州で繁栄した一族。渡来人阿知使主(あちのおみ)の子孫という倭漢氏(やまとのあやうじ)が大和朝廷の大蔵(財政機関)を預かったことにより大蔵を称するようになる。天慶年中(938‐947),藤原純友の乱に追討使として大蔵春実が九州に下向して以来,孫種材が刀伊の入寇に活躍するなど,その子孫は大宰府の官人として九州管内の各地に勢力をのばした。平安末期,平氏政権と結びついた大蔵(原田)種直が大宰権少弐に任ぜられ一族の多くも大宰府の要職をしめて勢威をほこったが,平氏滅亡とともに没落した。

 

 

 

 

 

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吉永正春氏の著書「乱世の遺訓より」完全引用・転写(65ページから69ページ)

◇乱世の遺訓 昭和58年7月1日 初版

◇著者 吉永正春氏 大正14年8月東京生まれ福岡市在住