近江屋事件では、実は坂本竜馬を狙ったのではなく、中岡慎太郎暗殺を目的としていたと説があります。竜馬は巻き添えだったという説です。しかしこの説には無理があります。もし見廻組が中岡慎太郎だけを暗殺するのであれば、土佐藩邸の向かいにある寓居に踏み込むような危険はおかさないでしょう。もし失敗して近江屋の外で立ち回りを演じるはめになれば、土佐藩邸から応援が飛び出し、襲撃者は逃げ道を失うからです。

 中岡慎太郎は当時、白川にあった土佐の第二藩邸を陸援隊の本部としていました。彼はそこにいましたから、白川からの出入りで隙をつけばいいのです。中岡慎太郎は竜馬ほどの剣の達人ではありませんから、数人で取り囲めば暗殺できたでしょう。もっとも幕府が陸援隊の存在と白川の土佐藩邸の存在をどこまで知っていたのかどうかはわかりません。

 竜馬が土佐藩邸におらず、向いの醤油屋にいたのは、藩邸にいると、外出したときに尾行される恐れがあったからかもしれません。第二藩邸の白川は当時は田舎ですから、張り込みは目立つでしょうが、四条河原町の土佐藩邸は繁華街です。張り込みは難しくなかったに違いありません。

 坂本竜馬はなぜ幕府に狙われていたのでしょうか。また幕府はどこまで知っていたのでしょうか。竜馬が伏見奉行に寺田屋を襲撃されるまでこんな感じです。

文久3年(1863年)
 10月 海軍塾塾頭になる
文久4年(1864年)
 2月 竜馬土佐藩を再脱藩
元治元年(1864年)
 5月14日 神戸海軍操練所創設
 6月5日 池田屋事件に関わり北添佶摩、望月亀弥太死す
 7月19日 禁門の変(蛤御門の変)
 7月23日 幕府が長州征討を発令。
 11月10日 勝が軍艦奉行を罷免
元治2年(1865年)
 3月18日 神戸海軍操練所廃止。
慶応元年(1865年)
 5月   長崎で亀山社中を結成。
 8月   薩摩藩名義での銃器弾薬を長州藩に斡旋。
慶応2年(1866年)
 1月22日 龍馬の斡旋で京都で薩長同盟
 1月23日 伏見寺田屋で幕吏に襲撃


 寺田屋で伏見奉行の捕り方に襲撃されたとき、竜馬はお尋ね者でした。しかしそれは前日京都の小松帯刀邸で行われた薩長同盟が原因であるとはとうてい考えられません。となると、それ以前の出来事に起因すると考えるしかありません。

 元治元年に池田屋事件がありました。池田屋事件のあと、京都を追われた長州の志士が激怒し、京都に進軍します。禁門の変がおこります。長州はあっけなく負けてしまいます。幕府が元尾張藩主徳川慶勝を主将に西郷隆盛を参謀にして、長州征討を行います。長州は戦うことなく恭順し、佐幕派が実権を握りました。

 池田屋事件で死んだ志士に、神戸海軍操練所に所属する土佐脱藩の北添佶摩望月亀弥太がいました。これを幕府を問題にしました。幕府の機関で倒幕志士を指導するとはけしからん、ということで当時の老中、阿部正外に睨まれて、勝海舟は軍艦奉行を罷免されます。翌年、神戸海軍操練所も廃止となります。ここで、竜馬は土佐の脱藩志士の親玉としてお尋ね者になったのでしょう。池田屋事件の前は、竜馬は幕府に追われてはいなかったのです。

 

海軍操練所跡碑[Wikipedia]


 この後、竜馬は薩摩藩に寄食し、長崎で薩摩の支援で亀山社中を結成します。池田屋事件のあった元治元年(1864年)から慶応2年(1866年)まで、竜馬は京都を訪れておらず、京都守護職配下の町奉行所も新撰組も見廻組も、竜馬がそれまで何をしていたかを具体的には知らなかったに違いありません。もちろん風聞はあったでしょう。しかし竜馬は倒幕行動がはっきりと知られていたわけではないと思われます、その坂本竜馬を卑劣な闇討ちのような方法で暗殺しなければならなかった理由とはどのようにものなのでしょうか。

 竜馬がなしたもののうち、神戸海軍操練所を追い出された以後、幕府の人間が激怒するようなものは次の四つでしょう。

寺田屋での幕吏殺傷
薩長同盟の斡旋
第二次長州征伐に参戦
大政奉還の陰謀


 これらの事績が知られた時、幕府の誰かが竜馬暗殺を決意したに違いありません。それは誰なのでしょうか。京都見廻組ではないでしょう。見廻組もしくは京都守護職の松平容保に指令できる誰かです。

 大政奉還当時の幕閣で名前の知られた人物は

老中首座 板倉勝静
老中   小笠原長行
若年寄  永井尚志
大目付  松平信敏(勘太郎)


 ぐらいでしょうか。松平勘太郎は、勝海舟の日記で本人が否定しています。老中の小笠原長行は第二次長州征伐の敗戦で一旦罷免されますが、すぐに再任されています。ただし小笠原長行は幕府の外務大臣という役目なので、内政には関わっていないはずです。となると、板倉勝静と永井尚志あたりが怪しいということになります。

 竜馬がやってきたことは、幕府にとっては確かに誅殺ものでしょう。権力のある誰かが竜馬暗殺の指令を出す可能性はあります。しかしこの時期、将軍は徳川慶喜でした。慶喜はワンマンでした。徳川幕府は成立当初をのぞけば、将軍はおおむねお飾りでした。幕閣が企画・立案・実行するだけで、将軍は「よきにはからえ」というのが決まりでした。将軍自らリーダーシップを執ったのは、贔屓目に見て犬公方の5代綱吉、米将軍の8代吉宗くらいでしょう。幕末の混乱期には強いリーダーリッブが求められて、慶喜が将軍に推されたのです。

 この時期幕府はすべて慶喜の指示によって動いています。板倉勝静も永井尚志も慶喜の指示に翻弄されてそれを実行することに精一杯ですし、慶喜の指示にないことを行うことはまずありません。もし大政奉還の陰で暗躍したのが竜馬であり、その竜馬を暗殺するとなったら、慶喜に上申し了解を得るでしょう。勝手な行動を行えば、彼らの地位もまた危うくなります。

 幕閣の上層部は竜馬が倒幕運動でなしたことを知っていたかもしれません。海援隊にも佐幕派の隊士もいましたが、長崎にいたころは長崎奉行が監視していて、竜馬についての情報は京都の幕閣に報告されていたでしょう。しかし幕府側にいた一般の武士たちは詳しくは知らなかったに違いありません。竜馬の暗殺を指図したのは、幕閣ではない幕府の誰かではないでしょうか。

 

 

 

 

 

 


—目 次—
グーグルマップに重ねる幕末の京の地図
第一章 裏切りの西郷隆盛大悪人説を証明せよ
第二章 竜馬暗殺の実行犯、見廻組タスクフォース
第三章 状況証拠で固める桑名松平定敬の影
第四章 死せる竜馬、生ける慶喜を走らす