竜馬の暗殺を再考すべく、『竜馬がゆく』を読み返しました。読み返したのは多分三回目くらいですが、けっこう覚えていませんでした。結局、読み返したところ、坂本龍馬暗殺の実際の犯人は佐々木唯三郎(只三郎)であることは確実そうです。

 佐々木唯三郎が手を下した確実な証拠はありませんが、証言はいくつかあります。いま知られている証言には次のようなものがあります。

・新撰組大石鍬次郎の証言
・明治3年の見廻組今井信郎の証言
・佐々木唯三郎の兄、手代木勝任の回想
・大正4年の渡辺篤(吉太郎)の証言


 最初の証言は、新撰組で人斬りといわれた大石鍬次郎が近江屋事件の翌日に近藤勇から聞いたとするものです。司馬遼太郎『竜馬がゆく(八)』の「あとがき五」に書かれています。戊辰戦争で板橋で官軍に捕縛された新撰組大石鍬次郎が

竜馬暗殺は新鮮組の仕事ではない。見廻組である。事件の翌日、近藤勇らが、剛勇の竜馬をしとめた見廻組の今井信郎、高橋某のはたらきは感賞するに足る、といっていたのを聞いたことがある。(『竜馬がゆく(八)』文春文庫版416ページ)

 と供述したのです。このとき、竜馬暗殺の具体的な名前がでたのです。大石鍬次郎が捕まったのはおそらく慶応4年ですが、証言した時期はよく分かりません。大石鍬次郎は明治3年10月に伊東甲子太郎殺害の罪で斬首されているので、それまでの間でしょう。

 二つ目は戊辰戦争で箱館で戦い捕虜になった今井信郎が、明治3年に近江屋事件について自白したことでした。大石鍬次郎の証言で、近江屋事件に今井信郎が関わっていたことが証言されました。そのため今井信郎を厳しく問いただしたのです。今井信郎は直接手を下したことは否定しましたが、佐々木唯三郎与頭のもと京都見廻組が近江屋を襲い、坂本龍馬と中岡慎太郎を殺害したことを告白しました。この証言はすぐに勝海舟にも伝えられて、彼はそれを日記に書き記しています(明治3年4月15日)。

 


 つづいての証言は、佐々木唯三郎の兄、手代木(てしろぎ)勝任が晩年に記した書で、そこに書かれていたものです。Wikipediaの手代木勝任のページには

手代木は松平容保の命で、佐々木に実行させた

と書かれています。手代木勝任は会津藩の公用人でした。公用人とは藩と幕府との間での折衝役です。京都守護職の松平容保にとっては非常に重要な人物で、なおかつ実権を持っていた人物です。新撰組の設立にも関わっていたともいわれています。

 四番目は襲撃した見廻組の一人で、渡辺篤(当時は渡辺吉太郎)が晩年になってから証言したものです。大正期に入ってからのもので、今井信郎の証言や現場の状況とはいささか食い違うところもありますが、本人が竜馬を斬ったと述べています。近江屋事件後、約半世紀がすぎていますから、本人の記憶が曖昧で、詳細に違いのあるのは自然なことです。古い記憶は思い込みや勘違いなどで書き換えられていくのが普通なので、今井信郎の証言と多少違っていても不思議ではありません。

 近江屋事件は見廻組関係者の証言以外には別の犯人を示す証拠や証言はありません。実行したのは佐々木唯三郎を始めとすると六名の刺客であることは間違いなさそうです。

 

 

 

 

 

 


—目 次—
グーグルマップに重ねる幕末の京の地図
第一章 裏切りの西郷隆盛大悪人説を証明せよ
第二章 竜馬暗殺の実行犯、見廻組タスクフォース
第三章 状況証拠で固める桑名松平定敬の影
第四章 死せる竜馬、生ける慶喜を走らす