シーボルトの娘、イネは、「楠本イネ」が正式な名前です。ただし、この名前では宇和島藩主伊達宗城が付けたもので、おそらく後になって付けられたものです。もともとは「失本(しもと)イネ」と名乗っていました。「失本」はシーボルトの当て字です。「失う」という文字がよくないということで、母親のお滝の名前とって「楠本」にしたと言われています。

 しかし「花神」では、「楠本」はお滝の先祖の名前であったとは書いていません。司馬遼太郎の説明では、お滝の先祖は楠木正成の家来であったとするだけです。おそらく姓ははっきりしていなかったのではないでしょうか。そこで「楠木」と「失本」を組み合わせて「楠本」という名前を創作したのではないでしょうか。それとも楠木正成の家来に「楠本」という家来がいたのでしょうか。「失」に「楠」を差し替えて作った名前だと考える方が自然な気がします。

 イネには娘がいました。「高子」です。彼女が十七歳で結婚した時の写真が残っていて、その写真を見た松本零士がメーテルやスターシャのモデルにしたと言われています。シーボルトはオランダ人ではなく、バイエルン王国の人なので、イネはドイツ人とのハーフ、高子はドイツ人とのクォーターということになります。


1868年に撮影された三瀬周三と高子


 イネの娘はもともと「タダ」と呼ばれていました。楠本高子となったのは、おそらく彼女が宇和島藩の奥女中になったときでしょう。彼女が一三歳になった時、二宮敬作の縁で宇和島藩の奥女中になります。おそらくこのとき、伊達宗城の指示で「失本」を「楠本」にしたのでしょう。「タダ」も「高子」になったと思われます。

 しかしなぜ、イネの娘は宇和島藩の奥女中になったのでしょうか。二宮敬作が勧めたのでしょうか。奥女中は藩主夫人付きの使用人ですから、普通は身元のしっかりした娘を採用するはずです。二宮敬作は宇和島藩では信頼されていましたが、イネは1年か2年程度住んだだけなので、その娘が奥女中になるのはいささか不可思議です。

 司馬遼太郎の「街道をゆく」で、伊達宗城が神田川原の村田蔵六の教室に講義を聴きにいく動機として

伊達宗城は、イネにつよい関心をもった。
あるいは性的な関心もあったかもしれないが、
それは当の宗城にきいてなければわからない。


と書いています。性的な関心があったかどうかは別にして、宗城は西欧人との「あいの子」には興味をもっていたのでしょう。日本人とのどこがどう違うのか、というようなことには強い関心を持っていたに違いありません。おそらくイネに娘がいると聞いて、見てみたくなったのではないでしょうか。

宗城 奥、シーボルトのイネ殿には娘御がおるそうじゃ。
益子 イネ殿にですか。
宗城 今年十三になるという。どうじゃ、奥に入れてみては。
益子 イネどのに似ておられるのでしょうか。ぜひあってみたいものです。


 こんな感じで、宇和島に誘ったのかもしれません。なお、宗城夫人は鍋島益子で、鍋島直正(閑叟)の妹です。鍋島直正の母親は鳥取藩主池田治道の娘の幸、その姉が島津斉興正室の弥姫です。鍋島直正と島津斉彬は従兄弟になります。つまり江戸城で蒸気船談合を行った三人の大名は縁戚だったのです。

 宗城夫人の名前は益子ですが、楠本高子が大正期に書いた手紙によると、子供の頃は「玉姫」と呼ばれ、伊達家に嫁いでからは「猶姫」と呼ばれていたそうです。宇和島の卯之町にある宇和先哲記念館にその手紙が保管公開されています。この手紙にあるイギリスの軍艦はアーガス号で、アーネスト・サトウが乗っていました。慶応2年に宇和島を訪れています。このとき、蔵六が作った樺崎砲台が礼砲をうちました。宗城はサトウを城に招き、アーガス号の士官とダンスを踊ったと「花神」には書かれています。ちなみに、アーネスト・サトウはイギリス人ですが、父親はドイツ人でした。

 


上がオリジナルの直筆の手紙。下は現代の言葉に解説したもの。

 楠本高子は奥女中になった翌慶応2年、三瀬周三と結婚します。十四歳か十五歳でした。藩主夫人の勧めだとどこかに書かれていたと記憶していますが、違うかもしれません。吉村昭の「ふぉん・しぃほるとの娘」では、イネの強い勧めで三瀬周三で結婚したとなっています。奥に入れたものの、あまりの美形故に心配になった宗城夫人の益子が早く結婚させたというのは、うがちすぎかもしれません。三瀬周三と楠本高子は結婚後、神田川沿いの南側で、勧進橋から少し登ったところに住んでいました。

 三瀬周三(諸淵)は、大洲の人です。「二宮敬作の甥」といわれていますが、Wikipediaの三瀬諸淵のページには二宮敬作の遠縁だと記載されています。姉の子という説もあります。「花神」では漢字を使わずに「オイ」と書かれています。大洲は宇和島藩ではないので、おそらく周三は遠縁だったのでしょう。才能があったので、敬作は三瀬周三を愛し「甥」として遇したのかもしれません。

1824年(文政7年) 蔵六、周防鋳銭司で生まれる
1827年(文政10年) イネ、長崎で生まれる
1839年(天保10年) 周三、大洲で生まれる
1845年(弘化2年) イネ、産科医石井宗謙の弟子となる
1846年(弘化3年) 蔵六、緒方洪庵の適塾に入門
1849年(嘉永2年) 蔵六、適塾の塾頭となる。
1852年(嘉永5年) イネ、長崎で長女タダ(高子)を産む
1850年(嘉永3年) 蔵六、帰郷して村医になる
1851年(嘉永4年) 蔵六、琴子と結婚
1855年(安政2年) 周三、宇和島で蔵六に蘭学を学ぶ
1859年(安政6年) シーボルト再来日。周三、シーボルトに弟子入り
1865年(慶応元年) 高子、宇和島藩の奥女中になる
1866年(慶応2年) 高子、二宮敬作の甥、周三と結婚
1869年(明治2年) 大村益次郎(村田蔵六)暗殺


 大村益次郎が暗殺された時、三瀬周三は大阪医学校の教官でした。周三は政府に招かれて、明治元年に大阪医学校の教官になります。いま残っている楠本高子の写真は周三との2ショットで、おそらく周三が大阪医学校に招かれたときに撮ったものでしょうか。

 大村益次郎は明治2年に京都で凶刃に倒れ、大阪に移されて三瀬周三や緒方惟準、オランダ医アントニウス・ボードウィン、そしてイネの治療と看護を受けますが、結局、足の切断が遅れて、敗血症でなくなります。大村益次郎の看護には、イネの娘高子も付き添っていたかもしれません。なお、三瀬周三は明治3年になってから、三瀬諸淵と名乗ります。