ちと照れくさい自分の話をしようかな。
本当は自分のことを語るの、あんまり好きじゃないんです、わたし・・・
「君はね、(自信に満ちているように見えて)本当は自信がないんだよ」
学生時代、教授に言われた言葉
「ヒャクゴウ先生は、自信があるようでないようで・・・」
この春うちの日本語学校をやめられた先輩からのメールにあった言葉
(ものすごくお世話になった先輩でした)
そう、
ヒャクゴウ、
常に大きなことを語り、自信満々なように見えますが
結構気が小さい
自分が担当する日に決まった学生が休むと、自分のせいだとすぐ思う
そして、自分を責める
他の理由があるかもしれないけどさ。
他にも、いろいろある。
基本的に自分が好きって思わずに育ってきたし、
自己愛なるものを取り戻したのも
つい最近のことだしさ。
それで、去年の夏ごろから、ゲシュタルト心理学の本とかエーリッヒ・フロムの本とか
今年はNLP関係の本とかいろいろ読んでいたんだけどね
自分のいいところも悪いところも客観的にとらえて、
自分を受け入れなきゃいけないな
ということと
自分の居場所は自分でなくちゃね
と思うようになったわけです。
つまり、自分のこと好きじゃなくて
他の人に、自分のこと好きなってほしいとばかり思っていて
それが叶わなかったときの失望
そういうのって違うんでない?
「愛」は他のものからやってくることを求めるんじゃなくて
自分の中にあるんだよ
ということを、遅まきながら悟ったわけなのですよ
![べーっだ!](https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/188.gif)
それで、
冒頭の自信のなさに戻るんだけれど
自信があるように見えて、自信がない
結構なことじゃないか!!
と、最近おもうんだわ。
もちろん、私は自分の感性を信じているし
馬鹿みたいに「世界一独創的」と思ってるし(すみません・・・)
やりたいことは、ほとんど実現させてる
でも私の中にある「不信」が、私をコントロールしてくれているのだ
もし、「自信満々」な私だけだったら、
とっくに仕事でミスを重ねて、首になってるだろうし、
鼻もちならない人間になっていただろうし(今も!?)
英語もフランス語も、頑張らないで終わっただろう。
それに、謙虚さ、というものを忘れないでいられるんだと思う。
「自信満々」な私を
存在論的に否定する「不信」の私が
アンチテーゼとして(ヘーゲルです)
制御して、緊張感を保った、ちゃんとした大人たらしめていてくれる。
(哲学的な書き方になっちった
![汗](https://stat.ameba.jp/blog/ucs/img/char/char2/028.gif)
「自信」と「不信」がコラボして、私を作ってくれているのだ!
まあ、だれしも相反する性格をうちに秘めているものなんだろうけど、
私は
そういうことを頭ではわかっていても、
体得するのに時間かかったんだね
今はすべて受け入れてる
以前『Big Issue』でとりあげた
ホームレスの方の人生相談に
「自分の嫌いなところこそ、好きになってみる」
というのは、こういうことだったんだな、と思うヒャクゴウ。
きっとこれからも、自分の中の「嫌だな」というのと向き合っていくんだろうけど
(ていうか20代中盤からずっと一つずつ向き合う作業をしてきたから、いい加減疲れた気もしなくない)
私は、私であることを、誇りに思ってる。
つらかった時、不器用だったとき(今もだけど)の自分がいるから
今の私がある。
そして、これからも自分らしさを大事にして、進化していくつもりだ。
こっそり?自分のこと書いちゃった。
読んでくださったかた、ありがとうございました^^