NHKの放送、
瞑想でたどる仏教 心と身体を観察する 蓑輪顕量先生(東京大学)
の番組を、自分の勉強のために、まとめてみました。
早稲田大学、
臨床心理学では、瞑想というのは『注意』 をどう扱うかという技法。
実験
最初に『嫌なこと、最近不安に思っていることを思い出して下さい』と、お願いした。
次に、画面に『ン』『ソ』で『ソ』が出たら手を叩く動作をしてもらう。
それを続けている間は、嫌な気持ちは消える。
嫌な気分というのは実は、今この瞬間に起きていることに好奇心を持って注意を向けることが出来るようになると、比較的速やかに変わっていけるもの。
ストレスにつながる心の動きを呼吸など今この瞬間の体験に意識を向けることで減らそうとするのが、マインドフルネス瞑想。
実験、
複数の参加者に、8週間、毎日家に帰ってから20分程度の短い瞑想を行う。その瞑想中の体験を文章で書いて頂く。
瞑想を妨げるものが具体的に見えてきた。
大切なのは、思いが乱れるのは当然と知り、そこに執着しないこと。
望まない効果というものは、どういうタイプの人に現れやすいのか?
リラックスできない。
オウム真理教のように危ないものであるというイメージがあったり、よくわからないと思っている。それを科学的に実証して効果があるのか?とか同時にどういうリスクがあるのか?
分かってくると、ストレスと向き合う時の技法としてひとつの選択肢となる。
東京大学、
脳科学の分野では、瞑想中に脳に何が起きているのかメカニズムの解明が進んでいる。
デフォルトモードネットワーク(考え事など内面に意識を向ける時に活動する脳の領域)
タスクポジティブネットワーク(外界のことに注意をむけているときに活動する脳の領域)
瞑想しているときは、デフォルトモードネットワークの中のつながりが強くなっている。
外の世界の情報を遮断し内側の世界に注意を向けている状態なので、そういう状態は瞑想の負の側面として知られている。妄想や幻覚が起きやすい状態なのではないか。
仏教における瞑想と、『マインドフルネス瞑想』は、同じものなのか?
『マインドフルネス瞑想』は、価値判断を入れずにありのまま見ること。
と、いうことなので、仏教における瞑想と同じものであると云える。
仏教における瞑想は、1つの手段。ものの見方とか、社会での生き方だ。
仏教の場合には、瞑想と慈悲がいつもセットになっている。そして戒律が存在する。
瞑想がテクニックとしてだけ使われると問題点も持っていることはある。
アメリカの例だが、軍隊で使われている。
PTSD=心的外傷後ストレス障害を起こさないために事前にマインドフルネスをする。(殺人マシーンを作っているのでどうかと思う)
湖でボートを漕ぐ時、漕ぎ方が瞑想、どこに行くかはその人の意図によって変わる。
仏教の中では『他者性』がきちんと担保されていて、どうあるべきかがきちんと出されている。
基本的には、瞑想は技術、身体技法みたいな所がある。技術があると同時に、仏教は、使い方の指針もしっかりと示している。それが大事。例えば、戒律の中には、人を殺めてはいけないとある。
個人が苦しみながら逃れた後、どう生きていくべきか、きちんと示している。
人間は、1人では存在しえないもので、他者との関わりの中で、社会を構成し、社会の中でどうあるべきか見据えている。
私たちの感覚器官を通じて認識して、そこから生じる心の働きに悩み苦しんでしまいますが、それが完全に無くなるとは仏典の中には書かれていません。そのような様々な働きが生じても、それをこらえることが出来るように、なんとかして生きていくことが出来る、その心に支配されない、それを超えていくことが出来ると言う風に述べられている。
ですからまさに、『心を師となるも 心を師とすることなかれ』と、云うことで、まずは自分を整えて、そして社会の中で、どう活躍できるのか、そこで出来ることは、自分の生きている意味を後で自覚することにつながる。
仏教は、そういったことを伝えたのではないか?
最後まで読んでいただきありがとうございました
みなさまに幸がありますように
~ステキな1日を~