空白の四世紀 | 言いたいことは言う

言いたいことは言う

ブログの説明を入力します。

空白の4世紀とは、西暦266年から413年までの147年間を意味します。具体的には卑弥呼の後継者として邪馬台国を統治した女王台与とよの時代から413年の倭王わおう「讃さん」の中国南朝への朝貢ちょうこうまでを指します。

この147年間に日本は飛躍的な文化的進歩を遂げましたが、それがどうやって為されたのか文字的な史料も考古学上の発見も乏しいので、日本史上の大きなミステリーになっているのです。

空白の4世紀を解くカギとして仁徳天皇陵のような古墳の調査が有効ですが、歴代天皇の墳墓については宮内庁が管理し、いかに学術調査と言っても勝手に墓を暴く事は許されていません。

そのため、宮内庁は天皇制を揺るがす重大な秘密を隠しているに違いないと盛んに陰謀論が唱えられる事になるのですが、それはさておき、このような事情から4世紀については、その全貌が分からない状態が続いていました。

文字史料が一切ない空白の4世紀ですが、歴史的な大発見が平成30年にありました。

4世紀末から5世紀初め頃に建てられた「大壁建物(おおかべたてもの)」と呼ばれる渡来人由来の建築物が奈良県の市尾カンデ遺跡で見つかったのです。大壁建物とは、方形に掘った溝の中に細い柱を並列で何本も並べて立て、その後土で塗りこめて壁にした建物で東西15メートル南北13メートルの当時としては日本最大の建築物です。

また、大壁建物の遺跡からは朝鮮半島の土器に類似する「韓式系土器かんしきけいどき」も多く出土し朝鮮半島との深い繋がりが分かります。従来、渡来人の日本移住は倭の五王の1人、5世紀後半の雄略天皇ゆうりゃくてんのう以降のことと考えられていたので定住時期が大幅に早まるかも知れません。

日本書紀には、渡来人の入ってきた時期を5世紀のはじめとする記述がありましたが、市尾カンデ遺跡からの大壁遺跡の発掘までは、信憑性が低いと考えられていました。

空白の4世紀に日本が文化的に大きな進歩を遂げた理由として大陸や半島から大勢の渡来人がやってきた事があります。では、どうして大勢の渡来人が4世紀日本に来たのでしょうか?

その理由として世界規模の地球の寒冷化があります。寒冷化は3世紀頃に頂点を迎え、有名な三国志の時代の中国は寒波の到来で南の長江が凍結するほど寒く、軍船が長江に入れずに退却した記述が出てきます。

この寒冷化はただでさえ貧弱な農業に大打撃を与え、中国周辺の遊牧民族も食糧を求めて晋帝国の領内に度々侵入するようになり、ここに八王の乱のような晋朝の内乱もあり、華北は五胡十六国の大動乱時代に突入しました。

この影響で朝鮮半島でも騎馬民族の高句麗こうくりが朝鮮半島を南下します。当時、朝鮮半島にあった大きな国、百済くだらと新羅しらぎと伽耶かやの中で百済と新羅が高句麗に降伏します。

しかし、百済王族の一部と伽耶国が倭国に救援を求め、これに応じて倭国が救援を差し向け、広開土王碑こうかいどおうひによると西暦391年に倭国が百済と新羅を破り臣民とするなど朝鮮半島で激しい勢力争いがあった事が窺えます。

これらの事から推測すると高句麗の南下で国を失った百済や伽耶から倭国に大勢の政治難民が渡来し、同時に騎馬民族である高句麗に対抗すべく、馬や牛が日本にもたらされたと考えられるのです。

4世紀の天皇には、欠史八代の天皇に続き実在した可能性が高い天皇として以下の天皇がいます。

15代応神天皇は、晋書の倭王讃と推定される天皇の1人で西暦413年に東晋の安帝(司馬徳宗)に使いを出し貂皮てんがわと人参を送ったと記録されています。

日本書紀や古事記によると応神天皇は渡来人を用いて国家を発展させたとあるので、積極的に大陸と交流を持ち、進んだ文化や技術を熱心に導入した天皇なのかも知れません。

空白の4世紀には、忽然と姿を消してしまう邪馬台国の問題もあります。

 

邪馬台国の消滅理由については空白の4世紀の間に、大陸から精強な騎馬民族が大挙襲来し騎馬を持たない邪馬台国を蹂躙して滅ぼし、邪馬台国を簒奪し大和王権を建国したとする説があります。


もうひとつは、大陸から入ってきた文明と文化の影響を受けて、邪馬台国が大和朝廷へと発展的に解消したとする説です。また、もう1つは邪馬台国自体が魏志倭人伝に出てきて有名になっただけで、元々長期存続するような政権基盤を持っていなかった可能性もあります。


つまり、正史三国志に取り上げられたから邪馬台国がクローズアップされただけで、実際の邪馬台国は大した強国ではなく、その後の騒乱で呆気なく滅びた。最初から大和朝廷とも大陸からの渡来人とも無関係と考える事も出来るのです。