昨日、
友達と逢う約束が
あり、
富山県に向かった。
早めに家を出て
蓮の花が
満開になって
いると聴いた、
ある公園に立ち寄り
ました。

不幸」や「悲劇」
と思えるものが
「泥」
「泥」がなければ
「蓮」の美しい
花を
咲かせるためには
「泥」
がどうしても
必要なのです。
(小林正観)
泥の中から立ち上がってきたことを感じさせないほど、美しく咲いています。
どんな悩み・苦しみ・大変なことの中から立ち上がり
そこで泥を突き抜けて花を咲かせた人は、美しいもの(悟り)を手に入れる、ということです。
「あだ花」とは咲きそこなったり、
きれいに開かなかった花のことをいいますが、蓮の花には、あだ花がないそうです。
泥水から立ち上がってきた蓮の花は、きれいに咲く。
泥の中から立ち上がってきたことを感じさせないほど、美しく咲いています。
「つらく悲しい思いがなければ、人間は悟ることがないのだ」ということを、お釈迦様は教えたかったようです。
お釈迦様は、蓮の花の有りようについて、ひとつの「経文」を残しました。
それが「法華経(ほけきょう)」というものです。
お釈迦様にとって、蓮の花の有りようは「人間の有りよう」を教えるものであったのでしょう。
「美しい花を咲かせる
ためには、泥が必要である」
ということを、お釈迦様は、後世の人に伝えたかったようです。
世の中には、お釈迦様の教えを知らない人も、おられます。知って居ても意味を深く考えようとも、せずに拒否したり、あるキリスト教を信仰する人の中には聖書からの聖句を持ち出しては「おかげさま」「ありがとう」の言霊に対して揚げ足を取ろうとする人達がいます。その人の信仰を否定するつもりは無いけれど、仏教の教えなど、仏陀の言うことなどは、知ったこっちゃない。卑下して馬鹿にする言葉を吐く人が、たまに居ますね。自慢たらたらで物を見せびらかしたり自分を勝ち組と誇り、感謝の言葉などが見えない。優しさなく謙遜さもない傲慢さを感じる事があります。自分にもそんな部分があるのを感じて反省です。
釈迦の教えを知らない人の中には苦難や苦しみ泥水の中で懸命に生きて美しく気高い人生という花を咲かそうとされる素晴らしい方々が多くおられます。その生き様はホントに泥水を吸いながら立ち上がろとしている蓮の話し、そのものです。
本を読み、正観さんの話しを知り蓮の花を意味嫌っていた自分が恥ずかしく思えてならないです。
今は大好きな花になりました。
意味を知り感謝しています。
ありがとうございます。
池の前を立ち去る時に、頑張ってるね。頑張る姿を見せてくれて、ありがとう。暑くて辛いけど頑張って咲くんだよ。🙏
つい話し掛けてしまいました。