1.太陽の光と、光に乗って運ばれる熱によって、地球に生きる全ての生き物は、そのための基本燃料を手にし、存在し続けるというその力の源を、自らの生と重ねる。それは、生まれた時から始まり、どこに居ても、みんなは、太陽に生かされ、太陽に支えられて、それぞれの変化・成長を普通とする。地球に居るというのは、地球の一部となって、太陽に生かされ、生きるということ。意識するまでもなくそうであるそれは、生の基本の下地のようにして、いつの時もそこに在り、その中で、動物も人間も、地球内生物の一つとしての生を営む。

生きることの、その素朴で単純な身体活動。そこには、いつも太陽が在るから、難しいことは何も無い。何も無く自然と生きられるよう、必要なものはすでにそこに有り、それゆえに、生は繋がれ、流れるように生き物は存在し続ける。そうではない世界を知らずに生きられるのも、太陽が居るから。その太陽に守られる地球に居るという選択をして、ここに居るから。その何でもない普通の中に、生命の本来と本質は有る。それを知る生き物たちが、この地球で生きている。

太陽の光に照らされて躍動する生き物は、その活力を地球発の生命力と重ね、地上を、無自覚に、調和有るそれにする。地球も、太陽の光を必須に回転しているゆえ、その光繋がりで、生き物たちは、そのままで地球を生きる。彼らの日々の営みは、生きること。生きるための何かを必要としないそこでは、どんな時でも、生きることを、ただ生きる。太陽が居て、地球と居るから、無くてはならない何かは、どこにも無い。少しの必要なものと一緒に、地球時間の中での自分時間を、太陽の光に包まれて生きる。

 

地球に生きる生き物たちの、そこでの暗黙の了解事項は、生きるために、何かを必要とはしないこと。必要なもの全てが揃っていることで、生き物としてのそれぞれの出現が可能となったわけだから、それは当然のこと。生きることを普通に生きられるよう、太陽は、光と熱を注ぎ、地球は、常に回りつつ、地上を活かす。それ以外に更に必要とするものが有るとすれば、それは地球にも太陽にも無いものだから、そうであろうとする生き物は、出現できない。生きるための何かを必要とはしないから、生き物たちは生きられ、ただそうであるその姿に、彼らはそのままで居られる。それは、責任とか仕事とかのレベルではない、生の基本形。それは、何でもない平穏と優しさの風景。

生きることの普通には、生きるための何かは無く、それゆえ、支え合いや認め合うことがあたり前にそこには有るため、争い事の原因は生まれない。太陽に生かされて生きる生き物たちは、生きられるから、生きている。生きるための何かという世界に触れたことの無い彼らは、そのことが、地球の安心と喜びであることを知る。それは、大切にされるべくことではなく、生きる上での、自然体の姿勢。この地球で生きる上での、その手前からの、一生命としての材料。

 

その普通が壊される。それは、太陽を避けて生きる動物の進化版のようにして出現した、太陽の下でも生きられ、かつ太陽と融合しない性質を備える、恐ろしく非地球的な生き物による。彼らは、生きるための何かを次々と生み出し、その数を増やしつつ、それぞれの質の非生命化を更新する。いつしか、それは、何かのために生きるという奇妙な世界を独自につくり出し、その何かに向かい、何かを求めるという生き方を、自分たちの生の基礎にしてしまう。太陽は遠ざけられ、地球の意思は、抑え込まれる。

太陽の光無しでは生きられないはずのこの地上世界で、太陽を退けるための何かをつくり、その中で不穏に過ごしつつ生を営むという、そのあり得なさ。地球が悲しむ何か(争い、衝突)を重ねながら、それまでどこにも無かった何か(物、形)で地球の息吹を抑え込もうとする、その信じ難い現実。永い間続いていた、生きることの普通は、その原因が崩されたことで力を失くし、地球全体は、非生命的な時空を拡げていく。太陽は、力を出せず、地球は、厳しさを受容する。

数百、数千年という時を経て、この地上での生の構図は、大きく様変わりする。本来・本質を守り続けて来た生き物たちは、どうにも出来ない中でのその変化に、力を失くす。それでも、地球の望みの中に居続ける彼らは、太陽の光に抱かれる時を基本に、地球に生きるということのその普通の生き方を実践する。それしか知らないから、どんなにそれを阻まれても、淡々と、生きるための何かの無い全ての中で、地球を

生きる。ただその原因の繋がりを、ありのままに次へと渡し続ける。

 

地球に居る生き物全てが普通として来たことを壊した存在たちは、より効果的に自分たちの普通(非生命力)を形に出来る何かを生み出そうとする中で、ある時、お金をつくり出す。野蛮さや凶悪さは、それによって姿を見せずとも良くなり、支配と権勢の質と内容は、強固となる。人の苦しみや辛さは、密度と層を備え出し、それ(お金)を、向かい、求める何かとしたことで、負の連鎖は安定する。病む(苦しむ)人と病ませる(苦しませる)人とが常に供給される土台を手にした存在たちは、地球に居ながらして、地球に居ない生を、それで維持することになる。

地球に生きる一生命としての大事なことを何一つ持ち合わせない存在たちは、人間という姿を以てしても、人間にとって大事なことなど、知ることもない。そんな彼らが手にすることになる、お金という世界。それが有れば、どんな要らない(意味の無い)ことでも大事なことに出来てしまうので、そこでは、大事なことが、力有る立場の存在によって、いくらでもつくり出される。差別や迫害、攻撃や征服までが、お金を絡めて、大事なことにされる。

 

お金が力を持つ世界というのは、そのまま人間の低次振りを現すのだが、それさえも、大事なこととして、人間の脳の働きを支配してしまうため、どれ程の質悪な世の中にかつての生き物たちは居るのか…と思う。原因の変化という、地球と共に生きる生命たちの普通は、夜行性肉食動物と同質の脳の持ち主たちが手にした、そのお金の力によって、居場所を失くし、この地球での要らない時を、夢のように彼らは過ごさざるを得なくなる。せめて、その質を変化に乗せなければ…と、彼らは思う。

この現代、人間は、守るものはお金だけ、というぐらい、その中身の無さを顕にする。ということを、彼らは全く分からない。数の力を堅固にするお金は、立場や境遇に差をつくり、人の不幸を笑う。思い込みの舞台を演出するお金は、欲だかりの感情を人に具体化させ、世の不穏を喜ぶ。ということを、彼らは全く分からない。その全てが、そこでは大事なこととなる。

 

お金が無くても、必要なものが普通に有るそこでのお金は、健康的に使われる以外、使われない。その必要なものというのは、あたり前に健康を支えるもの。病気とは縁遠くなれるもの。そうであれば、お金の質は変わる。

お金が有っても、手にするものがみんなにとっての普通のものであるそこでのお金は、不健全に使われることはない。その普通のものというのは、不安や心配からではないもの。みんながそうであれば、そのままで平和になれるもの。お金は、さりげなく仕事をする。

お金が有っても無くても、自然体での‘足ることを知る’の有るそこで使われるお金は、それ自体が、安心と調和の材料となる。いつでも手放せるものと、いつまでも大事にしたいものだけがそこには有り、お金は、そのことにさりげなく付き合う。

お金は、少しずつその質を変えて行き、今までと同じように使われなくても良い時へと、いつの日か、向かい出す。気づけば、お金が無くても過ごせる時間が増え、お金の出番は、次第に少なくなる。そして、有っても無くてもどちらでも良いところに、お金は落ち着き、みんなの中に、お金の無い未来の風景が芽生え出す。

そんな時の訪れは、人間の本来が、生きることの普通を取り戻す時。地球が嬉しい原因の生を、再開できる時。みんなで、生きることを楽しみ、ただ生きることで、地球の一部となって、地球になる。太陽は、生命たちを光で包み込み、彼らの、永遠の遊び仲間になる。