本来、人は、何かのために出会う人を必要とはしない。ただ縁すべき人に縁し、共に歩くだけ。向かうところも、大切にすることも、何かではないから。

 

お金ありきという概念から離れてみれば、あれもこれもと、無くてもいいものを求め、手にしていたことに気づかされる。いつしか、お金では扱えない内なる想いが、人としての在り様を見守り出す。

 

見られたくないものがそこに有るから、見た目でそれを隠し、見えるところだけを見てもらおうとする。言葉も行為も、そんな人の中で磨かれる。

 

何をするかよりもずっと大切な、何を感じているか…。何を感じているかよりもずっと大切な、なぜそう感じているか…。人としての責任は、その普通のこと。

 

人の本心が全く見えなくなっているそのことで、嘘の世界は、本当を手にする。本心がその人の姿であるということが外されるわけだから、その世界の住人は、本当のことより、本当とされる嘘の方が心地よい。つまりそれって、どういうこと?

 

人間を生きる時、当然そこに、演技は有ってはならない。演技は、自分ではない自分の姿。それに熱中することは、あり得ない。

 

人は、人生を終えるまで、基本、自分のことは、自分でする。身体というのは、そんな風に出来ている。そんなこと言われても…と言われても、そうなのだから、そうではないことは異常であるということを知る。病院や薬局が無かった時代、人は、病気から縁遠かった。