『荘子には、目、鼻、耳、口の七孔が無い帝として、渾沌が登場する。南海の帝と北海の帝は、渾沌の恩に報いるため、渾沌の顔に七孔をあけたところ、渾沌は死んでしまったという(内篇、応帝王篇、第七)。転じて、物事に対して無理に道理をつけることを『渾沌に目口(目鼻)を空ける』と言う。』(Wikipediaより引用)
この混沌はどちらかというと"生命エネルギー"という意味合いのようだ。
『先ほど、瞑想の例で、身体の動きの内部感覚を感じるっていうことを申し上げましたけど、この内部感覚に意識を集中していくことによって、私は混沌っていう概念が生まれたんじゃないかと思うんです。荘子の混沌の話そのものがそうですけど、穴を持たない混沌さんに7つの穴を開けてあげようと言って、1日に一つずつ穴開けていくと、六日目まで元気になってきたのが、七日目で混沌さん、死んじゃいますよね。あれ、7つの穴っていうのはまさに感覚器ですから、感覚を塞いだ状態っていうのが混沌で、それを味わうのが中国的な瞑想だったと思うんですね。いわゆる上座仏教のテーラワーダ仏教の瞑想の中に、ヴィパッサナーっていう瞑想法があるんですけど、それはまさに中国の混沌っていうものと通じるものじゃないかと思うんですね。
(中略)
・・・いずれにしても仏教や東洋思想には"色"に対する分析的な方法論だけでなく、"空という全体性への視線がありますよね。"老子"での全体性がタオ(道)ですし、荘子はそれを混沌と呼んだわけですが。』
(養老孟司、玄侑宗久著"脳と魂"より)
視覚や聴覚・・・それら認識する器官を用いて色んなものを判断し、あれやこれやと考えて、ほぼ、架空の世界の中で思い悩んでいる人に対して、内臓の動きに集中してみて下さいと勧めたら、精神疾患があっという間に治ったと以前の記事でも出てきた。見聞きして判断する大脳の動きを意識的に一旦止めて、内側に意識を向けるとガラッと違うものを感じることができるのだろう。
この内側が混沌、生命エネルギーなのかもしれない。
それにしても、親切心で穴を開けたら、混沌さんが死んじゃった話は、どう解釈するかは千差万別だろうが、私はなにか笑えないなと感じるのだった。
というのも、なんでもわかってからことに当たりたいと常に願っていたから、いろいろ調べたりしてきたわけだが、その行動が本当に良かったかどうか正直わからない。若かりし頃何もわからないときのほうがむしろ人生はバラ色だったかもしれない。
ただ、それでも、調べて分かった分、それに相応する量の謎もまた増えるから、いつも分かったと思う割合は同じなのだが。
荘子の話を読んでいて、そろそろ穴を開けるのはやめて、混沌に向いたほうが無難なのかなと思った。(つづく)