妙適清浄の句、是菩薩の位なり(空海の風景3) | 東洋哲学・真髄探求ブログ

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自分が実体験してみて本当だったと確認出来た数々の出来事の記録と、物事の本当の真髄は何なのか?探求しています。
(2008年から書いてますが2019年にほとんど消して残すものだけ再掲載しましたので、年代があわないものが多いです、ご了承ください)

『後の空海の思想にあってはその暗黒を他の仏徒のように儚さとも虚しさとも受け取らず、のちの空海が尊重した"理趣経"における愛適(性交)もまた真理であり、同時に、愛適の時間の駆け過ぎたあとの虚脱もまた真理であり、さらには愛適が虚脱に裏打ちされているからこそ宇宙的真実たり得、逆もそうであり、かつまたその絶対的矛盾世界の合一のなかにこそ宇宙の秘密の呼吸があると見たことは、あるいは空海の体験がたねになっているかのようでもある。』(司馬遼太郎著"空海の風景"上72Pより)

空海が32才、大唐の長安で"理趣経"を得たとき、この年齢のころ、空海はすでに性欲はいやしむべきものであるという地上の泥をはなれてはるかに飛翔してしまっていた。

それどころか性欲そのものもまたきらきらと光耀をはなつほとけであるという、釈迦が聞けば驚倒したかもしれない、次元にまで転ずるにいたるのである。

人間における性の課題を空海ほど壮麗雄大な形而上的世界として構成し、かつそれだけでなくそれを思想の体系から造形芸術として再び地上に下ろし、しかもこんにちなお人々に戦慄的陶酔をあたえ続けている人物はそういない。

理趣経(般若波羅密多理趣品)というのはのちの空海の体系における根本経典ともいうべきもの。冒頭のくだりから本質そのものが表現される。

"妙適清浄の句、是菩薩の位なり"
(男女交媾の恍惚の境地は本質として清浄であり、とりもなおさずそのまま菩薩の位である)

"妙適清浄の句、是菩薩の位なり"
(男女が互いに欲し、欲するあまり本能に向かって箭の飛ぶような気ぜわしく妙適の世界に入ろうとあがくことをさす。この欲箭たるや宇宙の原理の一表現である以上、その生理的衝動の中に宇宙が動き、宇宙が動く以上清浄でないはずがなく、そして清浄と観じた以上は菩薩の位である。)

"触 清浄の句、是菩薩の位なり"
(男女が体を触れ合うこと、それもまた菩薩の位である)

"愛縛清浄の句、是菩薩の位なり"
(仏教経典の愛は性愛をさす。愛縛とは、形而下的姿態をさす。男女が互いに四肢をもって離れがたく縛りあっていることも清浄であり、菩薩の位である)

"一切自在主清浄の句、是菩薩の位なり"
(この自在は、後世の禅家がしきりに説く自在ではなく、生理に根ざした生理的愉悦の境を言う。男女が相擁しているときは人事の煩わしさも心にかかることもなにごともなく、いわば一個の真空状態が生じ、あるいは宇宙の主もしくは宇宙そのものであるといった気分が生じ、一切自在の気分が漂渺として生ずる、それも菩薩の位である)

・・インド的執拗さと厳密さ故に似たような文章が並んでいく。

理趣経に性愛の生々しい姿勢的説明が書かれそれが菩薩であると言っていることは唐音で読まれているために思い描くことなく済んでいる。日本の中世にこの字句を取り出して性交こそ即身成仏の行であるとした一流儀もあった。もちろんそれは空海の本意ではない。

空海は万有に一点のむだというものがなく、そこに存在するものは清浄、形而上へ高めること、としてみれば全て真理としていきいきと息づき、厳然として菩薩であると観じたのみ。

かつて私も幼い頃お経を読んできたが、この"愛適"も、"愛縛"も多々目にしてきた。意味がわからずとも毎日読み上げることが、少なからず影響を与えたのか、この地上界に存在するものに、絶対的な悪はないのではといつも思ってきたが。

お経って行として繰り返したくさんの人に詠まれているが、言葉自体に意味があると呪文のように呟いていればいいものなのだろうか、私はできるなら意味がわかって読んだほうがいいのではと考える。(つづく)