フェミニズムの害毒
  林道義、草思社、1999.08/30。



第三章 家族への攻撃

 落合恵美子、伊田広行、斎藤学の三者の家族論に潜むのは、
 アナキズムである。

 フェミニストは近代家族を批判する。

それは、永遠なものではなく、近代社会の産物であるという
 だけで否定してしまう。

しかし、近代家族には、やっと達成 された、
 素晴らしい側面が幾つかある。

女性の地位は家族の中で保障される、育 児や教育にも保障
 が与えられている。

女性を抑圧するから近代家族は間違っているというのは、
 早計である。

 その背後にあるのは、働けイデオロギーであるが、
 働けイデオロギーこそ、近代社会の産物である。

マックス・ウェーバー、フランクリン、二宮尊徳、
 マルクス主義、すべてが働けイデオロギーを売り物にしている。

 フェミニストは、家族も変わりつつあると主張する。
 離婚家族、シングルマザ ー、離婚した者同士の複合家族、
 ゲイカップル、同棲、成人した子供が親離れしない家族、独身者。

これらすべては、新種というよりは、近代家族の変種である。
 なんら、新しいものではない。

 アメリカ、イギリスでは、家族の修復、家族回帰現象が
 ブームになっている。

 マーサ・スチュアートは、家庭運営をテレビや雑誌で説いて
 人気を博した。

それは、マーサ現象と呼ばれるほどのものになった。

 1999.3/7、「婦人公論」では、イギリスの家庭回帰現象が
 特集されている。

チルドレン・カム・ファースト(=子供が第一主義)で、
外で働く事を進歩と捉えていた従来の見方に疑問を投げ掛け
 ている。


 落合恵美子、「21世紀家族へ」 有斐閣。

 ここでは、「家族の時代は終わり、個人を単位とした時代が
 「始まるだろう」と説かれている。

落合は資料を駆使し、「希望的観測ではない」と言いながら、
 希望的観測をすべり込ませている。

 落合は勤草書房からも本を出している。
 そして、個の時代が 始まるという。

しかし、彼らの先輩である廣松渉氏は、
 純粋な個など存在しないと説いている。

父 としての我、教師としての我、通行人としての我といった
 役割性格は存在するが、それらを剥ぎ取った無色透明の我は
 存在しないというのが、マルクス主義的社会 観の筈だ。

 フェミニストは、自分の都合の良い時は、
 「アメリカではこうなっている」と宣伝するが、
そのアメリカで家族回帰現象が起こっている事については、
 黙して 語らない。
そういう本は、日本語に翻訳されさえしない。

 伊田広行、「シングル単位の社会論」世界思想社。ここでは、
 差別的な社会秩序の変革の為に、家族単位から個人単位へと語られる。

 家族が差別的だという根拠は、夫婦間、家族間に経済力格差
 がある為だと指摘 する。

よって家族を解体し、個人にすべきだという乱暴な理論。
 そもそも、経済力なるものに至上権を与えた上での議論。

 さらに、伊田の無茶な結論。
「家族の枠を揺るがそう。家族のような連帯を社会的に作ろう」
 ここまで、家族は差別的だと論じて置きながら、
 家族の中には 連帯という良いものがあると認めている。

家族は素晴らしい、と言っているのと 同じである。
 ここからアトミズム論を展開するにしても、幼稚な理論。

 アトミズム理論は、近代以前の、ホッブズやルソーと同じである。
 彼らは、絶対王権の下で芽生えた、商人や職人組合の中での、
 近代的市民社会の合意を知らなかった。

 様々な組織や団体の約束事の中から、近代的合理主義、
 その人格が生 まれた。ホッブズやルソーの社会契約論は、
 丸裸の個人が国家と結ぶべきもので、
 本当の市民社会を知らない者の発想である。

 家族単位を捨て、個人単位にすると、子供の扱いが問題になる。
 フェミニスト は執拗に標準家族を攻撃するが、
標準家族そのものが差別的なのではない。

 そこ から外れる者を蔑視する風潮を問題視すべきなのだ。


 1999.3/2、3/9、毎日新聞連載コラム、
 斎藤学、「オトコの生きかた」より。

 スウェーデンのシングルマザー礼讃。
 スウェーデンでは育児に関心を持つ男しかパートナーにはなれない。
日本では、子供が、冷めた夫婦関係を維持する道具 として
 使われている。という内容。

 ここでは、スウェーデンの最良の部分と、日本の最悪の部分
 とを比較して、ス ウェーデンに軍配を上げている。

ごまかしレトリックのひとつである。スウェー デンの
 シングルマザーの多くには、父親役の男性なんか付いていない。

悲惨さは 日本と変わりはない。

 さらに斎藤は、
 「戸籍が幅を利かせているうちは、少子化の勢いは止まらない」
  と述べている。

戸籍をなくせば、シングルマザーが増えて、
 子供が増加すると言いたげだ。

 斎藤の理論には、アナキズムが隠されている。

 毎日新聞に限らず、大新聞、小新聞の家庭欄、生活欄、
 学芸欄はこぞってフェ ミニズムに媚びているが、
それは破壊思想を宣伝しているようなものだ。

 これらの欄は、フェミニスト女性記者の溜まり場になって
 いる。家庭欄は女性 に任せて置けば良い等と思っていると、
 ひどい事になる。

新聞社の女性はみな「働 く女性」だから、
 たいていはフェミニストである。

中にはヒステリックなのもいる。
 読者は毎日、洗脳されているようなもの。

この偏向を批判する人もいない。
 多くの人はおかしいと思いながら批判し得ない。