はぁぁぁ~全く更新してません・・・

仕事もいまいち・・・

生活もいまいち・・・


ただ、母の介護は言ってみれば好調です。

11月で母が倒れて4年。


紆余曲折ありながらも・・・今は最高に良い状態かもしれません。

と、言っても・・・しゃべれないし、歩けはしないし。



前回は、父がぐあい良くないのに、とにかく母のお見舞いに行きたがる話をしました。


ここからはちょうど今から4年前の苦しい苦しい日々の話。


少しづづ書いて行きたいと思います。


光も何も見えない介護地獄・・・

母の手術から一週間。だんだんとこれからの生活をどうするかを考え始めました。

仕事、家事、父の世話?父の病院(透析)、母のお見舞い。

これらをどうこなすか?

それまで私は親と離れて住んでいたので、まずは親と一緒に暮らす引越しもしなければ・・・

仕事は変えてその自宅近辺で出来るようにしなくては・・・

何から手をつければよいのかまったく分かりませんでした。


それに、母はまだまだICUで一般病棟にはまだ移れない状態。つまりいつだめになるか・・・

分からない状態でした。


父は人生を振り返り母に大変な思いをさせてきたと考えていました。

そして、年をとり一緒にどこかに行こうとなってきたころ、父は腎不全になり。

透析となりました。

透析をする直前は100mも歩けないような感じでした。ぎりぎりまで透析をしないほうがいいのでしょうか?

よく分かりませんがかなり身体がきつかったようです。


あるとき新宿の地下道で立ち尽くし、「もう歩けない」と私に言いました。

きっと血液がまったくきれいにならない状態だったんでしょうね・・・

しばらく、そこに一緒に立ち尽くしました。多くの通行人がただただ通り過ぎていきました。

まるで何もないかの様に。私たちがただの置物か、オブジェのようにただただ避けて通り過ぎていきました。

別に声をかけてほしいわけでもないのですが・・・

なんとも言えない気分でした。

しばらくして父の腎臓も最期の力を振絞ったのか父はゆっくりと歩きはじめました。


母が倒れたのは父が透析をして5年目でした。それまで、母は週三回父を病院まで送り迎えしました。

もちろん、母の用事があるときは、私も手伝いましたが。ほとんどは母がやってました。

夫婦って大変だけど、すごいなと思ってました。

しかし、やはり父のある意味介護は母のストレスとなっていたのでしょう。


父はここで母に何が出来るかを考えていました。

毎日病院に行くこと。それが父の恩返しだったみたいです。

父は透析を火曜木曜土曜の午後からやっていました。

終わるのは午後7時ぐらいです。

それなのに透析の日の朝母の所に行き、透析が終わったあとも母の所に行きました。

いきましたといっても、私が車でつれて行くのですが。

そのとき、私は愛なんだな~と思う傍ら、そんなにお見舞いに行っても・・・と

複雑な思いを胸にしまっていました。


母は、毎日ただきょろきょろして、「あ~う~」ともっとはっきりしない声を出しています。

たった60ccの出血です。ヤクルト一本。

実際はそんなにも出ていないらしいです。

それでも、脳細胞は死んでしまうのですね。

左の脳をやられた母は言語と右半身不随となりました。

でも、集中治療室で手術の次の日からリハビリが始まりました。

動かない右手右足を曲げたり伸ばしたり。

また、動くけどゆっくりしか動かない左手を動かし、先生の言うところをに手を動かしたり。

とってもとってもゆっくりなゆっくりな時間の使い方だ・・と思いました。


でも、まあ、生きてる。きっとだんだん良くなる。そう思い、父を連れて毎日毎日集中治療室に通いました。


実は、父はこの時 週に3回透析をしておりました。一人では行けなかったので、私は母と父と二人の病院に

通い始めました。やるしかなかった。とにかく、目の前のことをこなしていきました。