前回のブログで、
うちの重度知的自閉症児の誕生日の夜に、うちの子の大声奇声(ずっとではなかったのですが)で、
近隣住民に通報されたお話を書かせていただきました。
確かに、悪いのは、我が家です。
子供がお風呂場で、感覚遊びで大声を出していて、それを1〜2分ほど静観してしまい、すぐに止めなかった、
私、母のせいです。
ですが、あの通報以来、
私は湯船に浸かることをやめました。
子供が大きい声を出す時間を少しでも短くすべく、
大声を出し始めたら、大声っていうか、あの知的障害独特の、健常者からみたらめちゃくちゃキモいと思われるあの声、
あれを出し始めたら、すぐに風呂から上がれるように、
シャワーで体を洗うのも、超ダッシュ。
温まってる時間なんて作っちゃいられない。
とにかく、この知的障害独特の声を風呂場で発させてはいけない。
一番くつろげて、1日の疲れを癒す場所であるお風呂場が、
今は、
一番緊張感に包まれ、慌ただしく、恐怖感と理不尽さを思いながら、それでも衛生は大事だからと気を強く持って入る・・・
そんな場所になってしまいました。
私は一年中、湯船に浸かる派です。
入浴剤(バ〇)を入れて、体を芯まで温めて、風呂上がりの大体2時間後あたりの体温が下がるタイミングで布団に入り、
質の良い睡眠をとることで健康維持・免疫力維持をしてきました。
最近は風呂上がりが寒い、寒い・・・
体を触っても、すぐ湯冷めし、芯が冷たいのがわかります。
毎日めっちゃ疲れているので、なんとか眠りへの影響はまだないですが、
冬場はさすがに入浴、したいです。
あのあと、通報したと思われる人が分かり(子供が放デイから帰宅後、うちの前で先生をお話をしていた時に、その住民の方が私達とデイの送迎車をガン見しに現れましたので、おそらくその方です。男の方で黒い高級車をお持ちの、ちょっと怖そうな・・・方です。見た目では、ですが・・・。)、
あぁ、やっぱりここの住居の方(風呂場に隣接する側の建物の方)だったかぁ、と、
ストンと落ちました。
今回のことから、私は色々な事を思いました。
その最たることは、
【結局、人って(もちろん自分も含め)、自分のことが一番で、
その一番の自分の身が脅かされることが起こると、
その相手の気持ちや環境などどうでも良く、
ただひたすら保身に突っ走るものなんだな】
ということです。
これ自体は、何も悪いことではありません。
自分や自分の大切な人を守るために、その身に危険や不安な事象が起これば、
全力で守らなければなりません。
そういうことではなくて、
この、【その一番の自分の身が脅かされることが起こると】という部分で、
この度合いが、人によって本当に大きく異なるので、とても難しい、ということです。
もっとはっきり言えば、
【障害者(特に重度知的)と健常者が地域で共に暮らす、それにはお互いの、相当なる覚悟が必要だ】
と私は思います。
ある人にとっては、うちの子の知的障害独特のこの、大声奇声が、
『あぁ、あそこは障害の人が住んでるんだなー。へー。』
で終わる方もいれば、
例えば健常の子が、ちゃんとルールを守って(むしろ今時、子供の方が大人よりもしっかり決まりを守って、大人の言うことを聞きすぎなくらいに聞いて、同調圧力とも言われる昨今の毎日を過ごしています)生活をしていても、
それすらも
『うるさい』『目障り』『邪魔』『親ちゃんと見とけよ』などと言う方もいます。
こんなにも多種多様な人たちが社会にはいて、その秩序を守るためのルールがあり、暮らしています。
確かにうちの子のような、とりわけ知的障害を伴う障害者は、そのルールを守ることが非常に難しい特性を持った人も多くいます。
なので、その家族は、全身全霊で毎日を生きています。
ですが、
特に日本は、まだまだ、まだまだ、障害を【尊重】してくださっている人、
ごくごく少数なのではないかと思います。
アメリカでは、自閉症の子が大型施設やレジ待ちで癇癪を起こしてしまったら、
周囲にいる全然知らない、近くにいる他人さんが、その子の気を紛らわせようと、
笑わせようとしたり、何かを気の逸れるものを持ってきてくれたり、皆が駆け寄ってきてくれて、笑顔で、
その子を見る目がとても優しいんだそうです。
日本はどうでしょうか?
ジロジロ見る、避ける、怖いもの見たさに何度も近辺をうろうろして見てくる、なんなら写メを撮る人も・・・。
私は一度、食料品売り場で子供が癇癪になり、警備員を呼ばれたこともあります。
そして、今回の通報です。
別に、そのこと自体は、構いません。
警備員さんが来ようとも、警察の方が来ようとも、
私のやることは、これからもずっと変わりません。
【今いただいている多くの福祉や支援者と共に、うちの子の将来のために、少しでも本人が生きやすくなるために、毎日ひたすら療育を続けていくこと】
そして、
警察や警備員さんが来るなら、何度だって、
淡々と説明をすること。
毅然として、生きていくこと。
この一択です。
誰かの人生や心を傷つけているわけでもない、誰かの幸せを奪っているわけでもないし、
社会に嫌がらせをしようと思って、ワザと障害児を産んだ訳でもありません。
健常者の中でしか生きたことがない大多数の方々(私も子供が生まれるまではそうでした)と同じように、
懸命に自分や家族との人生を生き、障害児であろうとも、不遇であろうとも、自分の子供の子育てをする
一市民・一国民であることは、
他のどの方と、どれだけ比べてみても、何も変わりありません。
私は、私を含め健常者が、もしこのことを肝に銘じていけるならば、
健常者と障害者の、本当の意味での地域共生は可能だと思います。
TVやSNSなど、カッコだけ良い、
『障害者と共に』『障害者も地域で暮らす方が一番いい』といった耳触りだけ良い言葉、
これを本当に受け入れて【いただく】には、
『健常者』側の意識を変えて【いただかなくては】ならないと思います。
私達、障害児家族は、今に【〜していただく】と誇張して書いているように、
いつも健常者の世界に遠慮をし、体を縮こませ、空気をできるだけ消し、キラキラした健常者の世界で呼吸をするのも申し訳ないと思うくらい、
『申し訳ありません』『申し訳ありません』『申し訳ありません』・・・、
毎日、何十回も心の中で謝罪しながら、それでもなお、強烈な強さを持って、生きています。
つまり、私達障害児家族は、いつも健常者の皆様に寄り添おうと、
もうすでにしているのです。
健常者の方々に、健常者が大多数のこの社会に、
いつも、ごめんなさい、と、ありがとう、の心を、もう抱いています。
健常者の方へ、
もし、私達障害者家族を、この社会に共生【させていただける】のであれば、
どうか、
健常者の方々も、
障害者・障害者家族に、
寄り添って【いただき】たいです。
理解をして【いただき】たいです。
できる限りで構いませんので、受容をして【いただき】たいです。
よろしくお願いいたします。
そしてもし、今現在すでに、受容していただいている多くの多くの、本当に多くの健常者の方々、
助けていただいて、見守ってくださって、手を差し伸べていただいて、
本当にありがとうございます