“内田恵太郎(著)内田さち子・塚原 博(編)流れ藻 内田恵太郎歌文集 (1983)”より
内田恵太郎 略年譜
明治29年 12月27日、東京神田の小川町駿河台下にて、父禮三郎、母みよの長男として生まれる。
明治36年 6歳 東京神田の猿楽町の錦華尋常小学校に入学。母みよ27歳で病死。
明治37年 7歳 病弱のため、神奈川県の三崎町尋常小学校城ケ島分教場へ転校し、二年生に編入。
明治40年 10歳 三崎町尋常小学校の高等科へ進む。
明治43年 13歳 東京開成中学校に入学。
大正 5年 19歳 第一高等学校の二部丙類(理農科)に入学し、寮生活をおくる。
大正 8年 22歳 東京帝國大学農学部水産学科入学。
大正11年 25歳 東京帝國大学大学院に入学。
大正12年 26歳 生物調査のため樺太へ調査旅行。北樺太の北端にて関東大震災の報を受け帰京。
大正13年 27歳 東京帝國大学農学部副手になる。岸上鎌吉教授に師事し、カツオ調査にトカラ列島へ出張。小島氏長女サチと結婚し、東京の中渋谷に住む。
昭和 2年 30歳 東京帝國大学農学部講師になる。朝鮮総督府水産試験場技師(養殖部主任)になる。水産動植物の養殖研究及び重要魚類の生活史の本格的研究を始める。また朝鮮各地の調査旅行を開始。
昭和17年 45歳 九州帝國大学教授を兼任。多年にわたる朝鮮産魚類の生態及び生活史の研究により、朝鮮水産業の発展に貢献したことによって、朝鮮文化功労賞を受ける。九州帝國大学教授(水産学第二講座担当)専任となり、朝鮮総督府水産試験場技師を兼務する。福岡市鳥飼に転居する。
昭和18年 46歳 日本産魚類の生活史の研究を開始。九州及び日本各地への調査旅行を始める。
昭和20年 48歳 米軍の空襲により鳥飼の住居を半壊する。
昭和22年 50歳 朝鮮魚類誌にて農学博士の学位を受ける。
昭和29年 57歳 新制大学設立に伴い、長崎、熊本、宮崎、鹿児島大学などの教授及び講師を兼務する。
昭和30年 58歳 鳥飼から弥生町に転居。
昭和31年 59歳 『さかな-日常生活と魚類』を慶応通信から出版。
昭和35年 63歳 九州大学教授を定年退官し、名誉教授の称号を受ける。福岡市の若久に新居を建てて移る。退官後は無職を誇りとし、研究と読書を続け、原稿の執筆、講演などに専念する。
昭和36年 64歳 40年にわたる魚類の生活史の研究により西日本文化賞を受ける。
昭和39年 67歳 岩波新書『稚魚を求めて-ある研究自叙伝』を出版。
昭和41年 69歳 『さかな異名抄』を朝日新聞社から出版。
昭和45年 73歳 勲二等瑞宝章を受ける。
昭和47年 75歳 随筆集『流れ藻』を西日本新聞社から出版。
昭和54年 82歳 『私の魚博物誌』を立風書房から出版。
昭和57年 85歳 3月3日、急性心不全にて逝去。従三位に叙せらる。遺志により遺体は九州大学医学部へ献体。3月6日、九州大学農学部水産学科葬。
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“まえがき”より
昨年、桃の節句の三月三日早朝、内田恵太郎先生には二日ほどの入院で、急性心不全にて85歳の生涯を閉じられてから、早くも一年が経ってしまった。一人残られた奥様はもちろんのこと、われわれ門下生はじめご交誼を受けた一同の胸には、なお生き生きと先生が宿っている。ここに一周忌を期して、先生のお人柄を追慕するよすがとして、先生の歌文集を世に送る次第である。
思えば、内田先生は幼少期から自然に親しみ、とくに海と魚を愛して研究の道に進まれ、魚類学者、水産学者として大成され、多くの優れた研究業績を挙げられ、九州大学名誉教授として永眠された。まことに魚類学と水産学の研究教育に捧げた生涯で、「慈教院澤恵海居士」が先生の戒名である。書名「流れ藻」の名は、すでに後述の一書があるが、先生の重要な研究テーマであり生前に愛好された言葉で、「おほうみの潮目に浮ぶ流れ藻のゆくへも知らぬわがおもひかな」との歌から採用した。
東京神田の商家に生まれた先生であったが、幼少時は病弱のため、父上の配慮から神奈川県三浦三崎の城ケ島で、小学校時代をおくっている。この漁村で美しい海と磯の魚に親しんだ生活は、先生の生涯に大きな影響を及ぼしており、『流れ藻』(西日本新聞社刊行)という本の中の生いたちの記に、心の自叙伝がくわしく書かれている。
先生の研究生活は、『稚魚を求めて』(岩波新書)という本の中に、研究自叙伝として語られている。自然観察に忠実で、直観的洞察力と先見性に富んだ研究発想は、独創性の優れた多くの業績を残されており、その着想から完成までの経緯がうかがえる。また、卓抜した指導性と強い感化力をもった先生で、その人柄は人々に親しまれ、一般に対する知識普及にも力を注がれ、多くの著書、随筆、講演などによってお魚博士と愛称された。
学問、人間、自然、社会を愛した先生は、博識であり関心も広く、歌も絵も書も造詣が深く、自らも折にふれて歌を詠み、画も書き、随想をものされた。いずれの場合にも、その多くは魚や海など自然に結びついたものが多く、とくに研究調査旅行や研究観察時に、歌や画が多くつくられている。これらのうちから、生前、先生自ら出版の心づもりで、歌や文章が選ばれ、原稿整理が進められていた。そのご遺志を汲み、歌人の奥様が選ばれたものを含めて、ここに内田恵太郎歌文集を編んだ次第である。
先生の研究の動機も、歌の出来るきっかけも、自らの内面的衝動に始まり、自身の内部の芽生えと自然の願望に駆りたてられ、浮かび出たものと述懐しておられる。それが外界から触発されたとしても、それが内面的なものに共鳴した場合に、おのずと歌となり、詩となり、ある時には数十首から百首近い短歌が一挙に生まれ、また、長い間なにもできない時があったという。そして一挙にできるときは、同時に一方では、専門の魚類研究に熱中している場合になっており、研究作業の副産物的に浮かび出たものが多いと言っておられる。
これは作画の場合も同様で、研究報告の描画は極めて微細な点まで綴密に描かれており、一般の絵にも正確さを期しておられた。そして正確な作画には、連続的な詳細観察が必要で、連続的変化を表現する図が多い。いずれも内面的に燃える情熱と衝動から、研究も歌も画も表出され、観察と判断は極めて冷徹な厳しい態度で進められ、その表現は美しい文章となっている。
今も眼を閉じれば、あの厳しくてやさしい先生の面影が浮かび、先生の書を読み、絵を見れば先生の声が聞こえる。これは先生に接した多くの人々も同じであろう。このように、多くの人々に忘れられない印象を残し、皆んなに敬愛され、追慕の思いが深いのも、先生のお人柄によるものである。お魚博士内田恵太郎先生の名は、内田さんという親しまれた印象とともに、優れた人間としても、永く世に残るであろう。いまこの書を霊前と世の人々に捧げて、現世に役立つこと多ければ、これ先生の余恵であろう。かくなれば、私達の幸せこれに過ぎるものはない。
なお、本書の題字および挿絵と書は先生の自筆であり、「歌ものがたり」と「室見川のシロウオ」は、西日本文化協会の会誌『西日本文化』(80-90号、昭和47-48年)に連載されたものである。
昭和58年3月3日
塚原 博
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“ドンコの歌 (p.56~)”より
亡くなった火野葦平は、鈍魚庵河童洞主人と自称していた。カッパの次にドンコが好きだったらしく、彼の風貌にはドンコの面影があった。昭和二十五年だったか、彼は九大農学部水産学教室のわたしの研究室を訪れた。魚の話を聞き、魚の研究者を主人公にした小説をかきたいのだとのことであった。
わたしはいろいろの魚の海中での生活の話とともに、わたし自身、少年から青年の時代を過ごした神奈川県の三浦三崎の城ヶ島での海の生活のことを話した。
その後間もなく、毎日新聞に小説『赤道祭』が連載され始めた。冒頭の、若い主人公第四郎が城ケ島の海で怪魚ウツボと格闘する話は、わたしの話そのままである。小説の進行中も何回か葦平は訪ねて来て、魚の話を仕入れては、しばらくするとそれが新聞紙上に現われた。終戦後間もない、ガランとした九大研究室の有様も、そのままに描写されている。
そのとき、わたしは「ドンコの歌」の連作を葦平に示したが、その第一首が小説の中の柳川の場面に引用してある。
小説の筋は葦平好みのロマンで、作者の自由な構想だが、小説を読んだ人の中には、主人公第四郎と九大の森迫景太郎教授とは、わたしの一人二役だという人もある。この小説は映画になったが、女主人公の千葉晴美に扮した女優の杉葉子(本名)の父、杉基一はわたしと中学校(東京開成)も高校(第一高等学校)もいっしょで、杉が門司税関長をしていたとき、女学生だった葉子に会ったことがある。妙に縁のある小説だった。
(中略)
火野葦平が関東の人だったら、ドンコ庵主人とはいわないで、ダボハゼ居士とでも称したことであろう。
●映画情報 赤道祭
https://www.weblio.jp/content/%E8%B5%A4%E9%81%93%E7%A5%AD?edc=WPMOV
●野煙る ・ エッセイ
マリアナのうなぎ
http://tokyoweb.sakura.ne.jp/noyaki/essay/sekidousai/sekidousai.html
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終章“本絶ちする(p.242)”より
ある日だまってすうといなくなる――
戸籍簿の名が消される――しばらくはだれかの胸に思い出が残り やがてそれも消え――
空々漠々それでいゝ――それでいゝのだ 昭和五十四年三月
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“あとがき”より
内田さち子
夫恵太郎の遣しました短歌その他をここに一応まとめまして、永年のご友情を賜りましたみなさまにお贈り申しあげます。
生前に歌集出版の意欲を持ちはじめておりましたのに、病みがちな妻は助力もいたしませず逝かせました。亡き後には、開成中学から一高時代の鉛筆書きの手帳があり、更に集名を墨書きいたし、歌集原稿として綴じました八冊も遣しておりました。
故人は「いい生涯だった。自分の一番にしたかった仕事が出来たのだから」と真実感じていた人でございますが、その一方には「本当は文科にゆきたかった。家の事情さえなかったら私は国文にいっていたよ」と晩年にひとつの心残りらしく、この言葉の出ます人でもございました。
いま、おくれました思いのみに、ただ夫の意に添いますことを、ひたすらにねがいながら、ようやくこれだけの編集をいたしました。
おかげさまで歌文集は出来ますが、ここまでには、塚原博教授をはじめ同門会-流れ藻会-の皆様のあたたかいお力添えがございます。中でも塚原教授はご多用の折柄、終始に細かいご配慮を賜りました。みな忘れがたい忝けなさでございます。亡夫の喜びが感じられます。
尚さきに皆様方からお寄せいただきました御香料などを、出版費にあてました。なにとぞご諒承おねがい致したく、ここに謹しみて厚く御禮申しあげます。
西日本新聞社出版部の栢岡典雄様には直接のお世話を誠にありがとうございました。
昭和五八年晩夏
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そういえば塚原 博先生には仕事(各種委員会での座長,報告書原稿指導など)で大変お世話になった。博多出張の際には,打ち合わせ後に飲み屋に連れていっていただき,美味しい魚貝類を肴に,内田先生の昔話やスクリップス海洋研究所の魚類学者カール・ハブス博士の来日時(1966年,昭和41年)の応対,研究対象とした魚の話などをうかがいながら楽しいひとときを過ごしたものである。
さて,私の就職時の上司は,かつて日本海区水産研究所で対馬暖流開発調査(1953年から4年間実施)として日本海全域の卵・仔稚魚の分布を調査された方であり,調査にあたって同定技術の研修のため九大で内田先生のご指導を受けたとのこと(内田先生が稚魚スケッチの点描をする際のトントンという音が,隣の部屋から1日中聞こえたと仰っていた)。
その後の別の上司は,九大農学部水産学第二教室を出た方で,実際に学生時代に使われた“日本産魚類の稚魚期の研究,第1集”(復刻版ではない初版)を譲り受けている。
ある意味(人脈的に),私も内田先生の系列に繋がっているのかもしれない(狭い世界ですから)。
参照
●SHIMOMURA T. and H. FUKATAKI (1957) On the year round occurrence and ecology of eggs and larvae of the principal fishes in the Japan Sea (1). Bull. Japan Sea Reg. Fish. Res. Lab, 6: 155-290.
http://jsnfri.fra.affrc.go.jp/publication/kenpou/kenpou-6,155-290.pdf
●水産庁 編 (1958) 対馬暖流開発調査報告書 第2輯(卵・稚魚・プランクトン篇)
●深滝 弘 (1959) 日本海産重要魚種卵・稚仔の周年にわたる出現及び生態についてII.対馬暖流海域におけるサンマ卵・稚仔の出現分布.日水研報告7:17-42.
https://jsnfri.fra.affrc.go.jp/publication/kenpou/kenpou-7,17-42.pdf
●アンダーウォーター・ナチュラリスト協会
9.魚類の胎仔
9ー1.ウミタナゴの胎仔 04/02/04
余吾 豊
1)恵太郎先生
http://www.aunj.org/cgi-bin/gatex/gatex.cgi?id=M-0042&pw=1086&page=99
●【文献紹介】九州大学附属図書館所蔵の内田文庫(内田恵太郎)
2015-07-14
https://ameblo.jp/husakasago/entry-12050371424.html
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