昨日は先日場所が特定出来なかった日吉町吉利の領家政所跡と地頭所跡が気になり

日置市役所(日吉支所)の教育振興課を訪ねました。


職員さんが四人も対応してくださり住宅地図を見ながら丁寧に場所を教えてくださいました。


鬼丸神社は勝手ヶ城跡の筈なのにデータベースでは春日城跡になっている事を疑問に思っていたので、お尋ねしたところ

「春日城跡でも間違い無い」との返答を得て、納得しました。


もう一ヶ所は井尻城跡

文献には西山の墓地と記されていますが、データベースで指定されている場所には墓地が見当たらず西山の墓地の場所も教えて頂きました。


おかげで全部巡る事が出来ました。

ありがたかったです(感謝)




領家政所跡と地頭所跡

道路を挟んで隣同士になります


以下、お借りしました


島津荘薩摩方日置北郷下地中分絵図

【重要文化財】

 
東京大学史料編纂所蔵【複製】

「島津荘薩摩方日置北郷下地中分絵図(複製)」画像


島津荘薩摩方日置北郷は,近衛(このえ)家を本家(ほんけ),南都一乗院を領家(りょうけ)とする荘園で,現在の日置市日吉町吉利(よしとし)にあった。弘安4(1281)年,島津氏三代久経次男・久長が伊作(いざく)荘及び日置北郷の地頭(じとう)に任ぜられてから,領家・地頭との間で荘園の権利をめぐる対立が激化した。
本図は,元弘4(1324)年8月伊作荘領家雑掌(ざっしょう)憲俊と地頭代道慶の下地中分和与状(したじちゅうぶんわよじょう)に付帯したもの。図の朱線は下地中分の境界線,黄褐色は道路,青色は河川を示す。
領家政所(まんどころ),地頭所,集落の位置,その他各名田(みょうでん),下司薗など荘園独特の田園の状態がよくわかる。航空写真で日置北郷付近の現況を検証すると絵図に引かれた境界線の位置がよくわかる。

      【鹿児島県のWebサイトより】



 公家領には領家政所を置き、武家領には地頭所を置いた。

領家とは宇治関白頼道公である。

 宇治関白公は荘園を島津(都城市祝吉)に置きその後近衛公は、世々領家となった。

 吉利にもその政所があって、命を領家近衛公に受け荘園に関する事務を司った。

 文治元年(1185年)源頼朝公は、その子忠久公を島津御荘の下司職とし、諸国に守護を荘園に地頭を置いた時、島津忠久公を島津荘総地頭に任じた。

これが地頭の始まりで当地の地頭の起こりである。

 藤原道兼を吉利の地頭として、家人前田某を南郷の地頭に任じて吉利を治めさせた。

      【日吉町郷土史より一部抜粋】



直ぐ近くにある吉利入道屋敷跡

 

原口集落のH宅の畑地の中央には柴を囲った石囲いが2カ所ある。

この辺りが当時の屋敷跡と言われている。

吉利大夫入道とは700年代に吉利に派遣された下司で吉利の祖と呼ばれています。




第1吉利城跡(吉利古城)




井尻城跡