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神通峡ふるさと創生物語ブログ1:「神通峡かいわいの昔話」・「集落ガイド」・「神通峡のわらべ歌」・「神通峡民話物語」等

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坂田公時    富山市薄波

 

 

 菅原道真(すがわらのみちざね)の死んだあと、藤原氏はますます栄え、藤原道長の代にその全盛期を迎えました。

 道長は

   この世をば わが世とぞ思う もち月の

     かけたることも なしと思えば

 と、自分の望みが何一つとしてかなわぬことがないことを十五夜の満月にたとえた歌をつくって得意がったほどでした。

 

 このようなありさまですから政治も次第にそっちのけになり、日夜遊びたわむれることが日課のようになりました。春は花見、秋はもみじ狩り、月をながめ、雪を賞し、酒さかなをならべて笛だ太鼓だと大さわぎです。こうしたぜいたくなくらしが、いつはてるともなく続けられたのです。その下にいる役人たちも心の底の底までゆるみました。中央の政治がゆるめば、地方の政治もまたみだれます。

 

 地方の役人たちも藤原氏をみならって税を高くしたり、人々の土地や財産をとりあげたりして、ぜいたくなくらしをするようになっていきました。生活に困った人たちは次第に気が荒くなり、まじめに働くよりも盗みをはたらいたり、力まかせに乱暴したりする人もでてきました。袴垂(はかまだれ)や鬼同丸(きどうまる)などという恐ろしい盗賊がぞくぞく現れてきました。

 このようになってきても、ぜいたくになれた藤原氏や役人たちは、もはやこれらの盗賊をしずめるだけの勇気や力がなくなっていたのです。

 

 そこで、地方の有力な人々が親類どうし一団となり、多くの家来を養って、武芸にはげみ自分たちを守りました。そのような団体が幾つも現れると、おたがいに武力をほこり、勢いを示そうとするため、ますます力が強くなっていきました。このような世の中になってきましたので、都にいても藤原氏におさえられて出世のできなかった血筋のよい人の中には地方にくだり、これらの団体の大将となるものもでてきました。のちの世にさかんになる武士というものは、こうして生れてきたのです。

 

 一条天皇の御代、さかんになってきた武士団の一つである源氏の大将に源頼光という人がいました。この頼光が相模の国、足柄山のふもとを通りかかると、はるかな谷あいに五色の雲がたなびいていましたので、不思議に思って山奥深く分け入りました。

 

 そして、山うばに育てられていた、たくましい子どもを見つけました。この子どもの名は怪童丸といって、おとぎばなしで名高い足柄山の金太郎さんです。

「まさかりかついだ金太郎 くまにまたがりお馬のけいこ はいしどうどう はいどうどう はいしどうどう はいどうどう」

とか、また

「あしがらやまの金太郎さん くまとおすもをとりました くまはころりと まけました」とうたわれているあの金太郎です。

 

 頼光は金太郎を一目見て、これは立派な武士になるぞと思いましたので、成長したら自分の家来になるよう約束して、都へのぼりました。天延四年、金太郎は都へのぼり、坂田公時と名をあらため、頼光につかえました。

 公時はもともと怪力のもち主でしたので、たちまち源頼光の四天王のひとりとして、都の人々の人気者になりました。頼光には、学問にすぐれた平井保昌という参謀がおり、それにくわえて、渡辺綱・卜部末武・臼井貞光・坂田公時という、いずれ劣らぬ四天王がそろったわけです。

 

 その頃、都に近い大江山に酒呑童子(しゅてんどうじ)という鬼がすみつき、夜ともなると都へ大勢の手下をひきつれて、おしよせ、たいへんな乱暴をしていました。

 源頼光は酒呑童子を退治して、人々を救おうと思い、四天王をつれて、大江山にのぼりました。この時、山育ちの公時は、小さな頃から山道になれていますので、見えない道でも、すぐさがしだしたり、酒呑童子の見張りを先に見つけて、敵の目をかすめて、どんどん進みましたので、頼光はじめ四天王たちは、たいへん助かりました。

 

 やがて、道なき道をふみわけていくと、ひとりの老人が立っていて、

「私は、この山をまもる山神である。酒呑童子を退治するには、ひとつの方法しかない。一夜の宿をたのんで、この酒を飲ませなさい。こちらの酒を飲めばからだの力がぬけるのじゃ。またこちらの酒は、飲めば飲むほど強い力がわいてくる酒だから、お前たちはこの酒を飲めばよい」

といって、いくらついでもつきないという、徳利を二つ渡しました。

 

 頼光たちは勇気百倍にして、道を急ぎました。やがて、大きな洞窟に鉄の扉をたて、酒呑童子の手下が門を守っているのが見えてきました。

 頼光は

「道に迷った山伏どもです。一晩泊めていただければ、いくら飲んでもつきない、不思議な酒徳利をさしあげます」

とたのみました。山伏に変装しているとも知らず、酒呑童子は徳利がほしかったので、頼光たちを泊めることにしました。

 

 さっそく酒呑童子は手下を全部集めて、飲めや歌えの宴会を開きました。頼光は、力がなくなる酒を、酒呑童子や手下たちに、どんどんついでまわり、自分たちは力のつく酒ばかりを飲んでいました。

 

 やがて、酒呑童子をはじめ大勢の手下たちは、よいつぶれて、ぐっすり寝こんでしまいました。

 頼光たちは、今だとばかり、酒呑童子の首をうちとって、めでたく都へ引き上げました。

 

 四天王のうちでも、渡辺綱と坂田公時は、とくに仲のよい友だちでしたが、ある日のこと、源頼親(みなもとのよりちか)という人に、あざけり笑われたことがあります。ふたりはたいそう怒って、頼親のいた越前の国に攻め込みました。頼親は、たぶん攻めて来るにちがいないと思っていましたので、本陣の霧ガ城から栃ガ峠まで、長い橋をわたし、弓矢や石をたくさん準備し、大勢の家来を伏せて待ちかまえていました。

 

 綱と公時のふたりは、そんな計略があろうとは夢にも考えず、頼親ぐらいはひとつぶしにしてみせると、ただ、ただ勇ましく攻めこんだだけでしたので、たちまち頼親の計略に引っかかってしまいました。さすがの豪傑も家来の多くを討たれてどうすることもできなくなり、越中の国へ逃げてきました。綱と公時が危ないということを聞いて、平井保昌と卜部末武とが急いでかけつけてきましたが、勢いにのった源頼親にさんざん攻められ、このふたりも、公時と綱のあとを追って越中へ逃げ出しました。

 越中に来た四人は、有名な人たちでしたので、たちまち人々からおされて、あちこちの村々の政治をまかせられて、そのまま代々、村々をおさめていきました。

 

 平井保昌の子孫は上市町に、渡辺綱の子孫は、大沢野の新村にながく住んでいましたが、そののち八尾の布谷にうつりました。卜部末武の子孫も八尾の栃折に栄えています。

 坂田公時の子孫は、下夕道の薄波に住んで、代々、村の役人をしながら現在も脈々と続いています。

 

「大沢野ものがたり 大沢野工業高等学校 社会研究部編」より

 

  ダラな兄マの話  富山市岩稲                         

 

むかしむかし、ある所に、ダラな兄マがござったと。年頃になったので、親たちも、こんなダラの所へお嫁に来てくれる人もいないだろうし、困った事だと心配していた。

 

ある時、物売りの商売人が来て、この親たちの話を聞いて、

「ここから五里くらい離れた村に、きりょうはよくないが、あの娘なら来てくれるだろう」

と話した。それを聞いた両親は、さっそく人を立て、お嫁にもらうことに話が決まった。

 

初対面のあいさつも教わったとおり間違えなくすまし、お膳が出て来て、酒盛りになった。親類の人たちも来ていて、酒がまわるにつれてにぎやかになって来た。歌を唄ったり、踊ったり。そこで親類の一人が、

「婿さんにも何か一つ」

と云うので、兄マは立ち上がり、

「小便に行って来てから」

と外へ出て行った。

 

兄マは、小便しながら、向こうをひょいと見ると、新しい白いこもと古い黒いこもが、納屋の入口に下がっている。これを見た兄マは、座敷へもどって来た。

 

「さあ何か一つ」

と云われて、

「白いこもあり、黒いこもあり」

と云うたのだが、みんなは何のことか分からないので、クスクス笑っている。

それを見ていた嫁になる娘が出で来て、

「みなさん、どなたでもよろしゅうございますから、上の句をよんでくださいませ」

と云った。しかし、誰もよむ人がいないので、

「それでは私がよみましょう」

と、

 

 一つ木に サギとカラスが 巣を喰えば 

         白い子もあり 黒い子もあり

 

と、一首の歌ができ上がった。来客一同は、感心した。

 

客の中から、

「ついでにもう一句」

と注文が出た。兄マは立ち上がって、

「小便して来てから」

と、また、出て行った。

 

しばらくして、兄マは席へもどって来た。今度は何を云うのだろうと思っていると、「頭ぶらぶら、しずくたらたら」

と兄マが云ったので、みんなは吹き出して、大笑いになった。

 

娘さんが、

「また、どなたか、上の句をよんでくださいませんか」

と云うのだが、だれもよむ人がいない。

「それでは、私がよんでみましょう」

と、娘さんは、次のような上の句よんだ。

 

  水鳥が 羽うちそろい たつときは

     あたまぶらぶら しずくたらたら

 

りっぱな歌によんだ娘さんに、いならぶ客も、感心しない者はいなかったという話だ。

 

後日談

この話は、夜学に通っていた時、蜷川先生が聞かせてくださった。その時に、先生は、「あんたたちも、かしこいお嫁さんをもらわれよ」

と云われた。後ろの方から、

「ダラな兄マの所へ、そんなかしこい嫁さが来てくれるかなあ」

と云う声が聞えた。

 

語りべ 吉田摂津

「ふるさとのわらべうたとむかしばなし」細入婦人学級編より

 

坂田金時と薄波のゆかり  富山市薄波

 

 

坂田金時さまは幼名を怪童丸といい大力の持主でした。天延四年(九七六)という大昔のことです。金時さまは当時、武勇の誉の高い源頼親さまの家来になり、渡辺綱・碓貞光・卜部季武等と共に四天王といわれるようになりました。

 

その頃、平安の都では大江山の酒呑童子という鬼が夜な夜な出没してあばれ廻り、都の人を苦しめていました。朝廷では頼道さまにそれを退治するようお命じになりました。頼道さまを御大将とし、家来の四天王と平井保昌さまの六人で酒呑童子の征伐に向かわれ、遂に成功し日本中にその名を響かせました。

 

それから後、金時さまと渡辺綱さまたちが協力して近江国の飯ケ峰で賊と戦い、越中国に引き揚げました。綱さまは八尾の布谷に、金時さまは大沢野の薄波に落着かれてこの地を治め、長く栄えられたということです。

 

現在、薄波の部落は転居して無人の里となっています。代々の坂田家には、鎧、兜、刀、槍などが伝えられてきたそうです。今は「金時像」と称する掛け軸しか残っていないということです。

 

〝はるか平安の昔をいろどった坂田金時のいさぎよい魂と夢は、この山里の何処に潜んでいるのだろうか。長棟川の流れは満々として去って還らず〟

 

平成七年七月吉日  大沢野観光協会

富山市吉野に接地してある大沢野観光協会案内板より

 

五郎兵衛宮  富山市町長

 

 

町長村の山頂に相当な平地(ダイラバタケ)がある。人呼んで「五郎兵衛宮」と称している。先人代々からの言い伝えやら過去帳等により、元禄の末期頃より明確に記録されている。

 

五郎兵衛三兄弟がダイラバタケに住んでおり、兄は五郎兵衛、弟の二人は清助と三右ヱ門との事、兄弟三人は次々と、このダイラバタケから下山、現在の町長の地に住み着いたとのこと。このダイラバタケは町長村発祥の地と言われている。

 

湧き水を利用しての水田が一反ばかりあった。山肌には、昔畑をしていた跡が見受けられる。屋敷の廻りにあったらしい柿の木も二~三本、大きな梨の木、五抱えもある栃の大木がある。

 

その辺にお宮の跡の石らしき物があり、今の野崎隆義家(野崎五郎兵衛)では、大正の末期まで鏡餅を持って、正月二日にはどんな大雪でも初詣に出かけたものだそうだ。

 

その後、昭和二十年代の食糧難の折り、町長の田中秀治家の方たちがそのダイラバタケの荒れ果てた田畑らしき所を一反余り開墾し、小屋を建て、水稲及び陸稲を三十年代頃まで耕作していた。

 

当時、梨の木の梢に卵より大きい梨がなっていて、村人たちが田中さんに梨をもらって食べたとのことだ。また、湧き水が流れ出ている谷間にわさびが生えており、少し上には「ナシノキダイラ」と言って広々した山面に、萱、ススキが生え、テンポナシ、ワラビ、ゼンマイ、ススタケ等の山菜に恵まれていた。

 

時代の流れと共に林道が造られ、杉等が植林されて、昔を偲ばしてくれていた栃の大木や山菜等が姿を消した。それでも、町長の野崎隆義家の嘆願により、大きい梨の木のみ姿を留め、当時を物語っている。

 

野崎隆義家(野崎五郎兵衛)の田植えには、どんなに「晴天の日」であっても、二日間の田植え中には、必ず「二粒」か「三粒」の雨が降ったという。雨が降って来ると、大勢の早乙女衆が声を揃えて「あっ、またダイラバタケの神様がござった。今年も、五郎兵衛さは平穏安泰であった」と叫び合うそうだ。

 

「大沢野町 下夕北部のあゆみ」より

 

勘造地蔵   富山市芦生

 



牛ケ増と芦生の境、俗にいう境松に「南無阿弥陀仏」と書いた地蔵がある。

 

昔、東猪谷村善造の弟に勘造という者がおり、下夕道の村々で、食わして貰うだけで一日働くというに日稼や、貰い物等をして生活していた。


ある年の師走の夕刻、笹津の村へ用足しに行った。牛ケ増村八右衛門方で夕食をご馳走になって、「早く帰らんと山犬が出るぞ」との声を後にして出た。


同じ頃、布尻村肝煎善右衛門は、呼び出しがあって、天正寺村の金山十村へと、この街道を急いでいた。境松の角を曲ってヒョイと出ると、前の土橋の上におよそ十数匹もおろうか、狼の群が「グオーグオツ」とうごめいていた。


善右衛門はギョッとしたが、ここで怖れていてはお上の御用が勤まらぬと、

「やいっ 獣物共、今日の善右衛門は、いつもの善右衛門と訳が違う。お上の御用で急ぎの道じゃ。邪魔立てすると用捨はせぬぞっ」

と、大音声を発すると、狼共は気押されて、何か黒い物を咥えて橋の下に引きずり込んだ。翌朝、村人たちが見つけた頃には、見るも哀れな勘造の姿であったという。


追悼のため、塔を刻んで建てたのが翌年の正月二十七日のことである。今、この塔が三つに割れているのは、ある時の洪水で流失したのだが、神岡軌道建設の際、石工が河原で石垣石を採取中、あまり大きいので三つに割って、裏返して見た所、仏塔であったのに驚き、現地に安置したものだという。


「大沢野町誌 上巻」より