太郎さんのような人が 本当に日本に生きていたってことは奇跡よ。 岡本敏子
私のような1954年生まれというのは、団塊の世代の後になる。
そして、新人類の少し前ということになる。
だから、よく、谷間の世代ということで「個性のない時代」と思われている。
それでも、年代的には、ユーミンやらサザンは、私の年代の優等生であると言える。
その、「シラケ」の世代の我々は、どこに命をこすりたかったかというと、わたしの場合は、
それはシュールになる。
ダダでもいい。
その中で、20年ほど、ぐちゃぐちゃになった。
シュールの文学者や画家やさまざまな芸術家に出会った。
画家では、マグリネットやダリや、詩では滝口修造や、映画ではシュールほどではないが、
ヌーベルバーグに夢中になった。
体制も嫌だが、ただの破壊も嫌だった。
その真ん中。
中途半端。
それが我々の時代のコンプレックスかもしれない。
ただ、絵をずっと書いていて自分の好きなものは、やはり、単なる「描写」や「写真のような絵」ではなくて、そこに「神話」や「伝説」を観じるようなものを書きたいと深く思うようになった。
そこで、渋沢竜彦に出会い、稲垣足穂に出会い、田中眠に出会い、松岡正剛に出会い、そして、
「愛人」のマルグリット・デュラスに出会った。
「オートバイ」のマンデイアルグに出会い、「軽蔑」のモラビアに出会う。
そして、最後に岡本太郎に出会ったのだ。
彼は、私がその当時働いている、渋谷青山の、骨董道りのすぐ脇道をはいったところにあった。
私の会社から岡本太郎の家が見下ろせた。もちろん全部ではないが・・・
いつも、その庭の横をとうりながら、彼のオブジェを見て、元気をもらっていた。
あのあたりは、「ブルーノート」があり、「根津美術館」があり、雪舟や琳派の本物がいつも見られた。
辻が花の袱紗・シフクなどは驚愕する美しさだった。
そこに今「岡本太郎美術館」がある。
彼の絵は私は自分の愛する画家の三本の指に入るのだが、奥様の敏子さんも素晴しい。
岡本太郎が独身主義を貫いて、生涯妻をめとらなかったので、彼女はついに養女として岡本家に
入ったのだった。
風呂場で心筋梗塞かなにかで亡くなるまで、彼女の貢献は素晴しい。
特に、メキシコで行方不明になった「明日への神話」の復元と日本への獲得については、彼女の力がなくてはできなかったことのひとつでしょう。
いつも渋谷にいくたびに「明日への神話」を見て、私はふたりに感謝したなあ。
その敏子さんの文章がまた、すばらしい。
ここで少し、紹介しておきましょう。
太郎があっての、敏子さん。敏子さんあっての、太郎がここにいますネ。
「お前さんが気に入ったから、
ほかの女には見向きもしない」
なんて言ってほしくない。
「男」であってほしい。
「まわりを見わたしても、ロクな男がいない」
だがそれは、女も悪いと私は思う。
お互いに相手を引き出し、
ふくらませなければ。
「恋なんて若気の至りだ」とか
「いまさら、そんな」とか。
なぜ?
八十や九十になって、
若気の至りをやってはいけないの?
お互いに相手を引き出すの。
自分だけでは「自分」になれないもの
あんなに素敵な人がいたんだぞってことを
もっともっとみんなに教えてあげたい。
太郎さんのような人が
本当に日本に生きていたってことは奇跡よ。
「愛してる」なんて言われたことなんて、
一度もなかった。
でも、わたくしにはちゃんとわかってた。
「自分らしくいきたい」
そういう人がわりに多いのよ、
男の人でも、女の人でも。
「自分らしさ」なんて、
そんなもの、
ほんとうにあるのかどうかもわからないのにね。
「愛する言葉」より。 イースト・プレス出版。(「愛する言葉」)