三島由紀夫   観世鉄之丞の「大原御幸」 書庫整理の日々。雑感記録。読書日記。 |   心のサプリ (絵のある生活) 

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三島由紀夫   観世鉄之丞の「大原御幸」

書庫整理の日々。雑感記録。読書日記。

 小林秀雄が梅若の能楽堂の帰り道から始まる名エッセイの「当麻」を読みながら、三島のこのエッセイのことを考えていた。

 今、キース・ジャレットのSomewhere Before というまさにシンクロニシティのCDがかかっている。

 仮面をとれ、素面になれ、そんな現代の似非心理学が万延している状況を憂いているのは、小林さんも三島さんも同じだ。

 お互いの表情を読み取っては喜々としている、そんなアホな現代人に能は、まさに、現世の無情と信仰の永遠だけを信じた時代がそう遠くない時代にあったことを少しだけ思い出させてくれる。

 これは日本だけのことではもちろんないが、オペラよりも、演劇よりも、古代ギリシャ悲劇よりも、この無常観をきちんと今に伝えている形式は他にない。

 音楽が祈りになり、登場人物からは表情が消えていく。踊りは日常の起居のようなものになり、歌は叫びになっていく。

 観世鉄之丞の「大原御幸」からのヒント。備忘録。

 優雅。血みどろの人間の実相。宗教。これら三つは芸術の必須要素だというのに、現代芸術にはひとかけらも残っていない。

 優雅については、言う必要はない。これは努力でできるものではない。貴族の長い繰り返しの中から自然発生するものである。

 血みどろの人間の実相については、人を殺す時代の、殺めるときに彼が発する叫び、断末魔の声、金切り声、そんな「地獄」の様は現代においては日本においてはきれいに庶民からは隠されている。先日、はやった「葬式」の儀式をなりわいにする職業などの方々が見事にその「死」をかたづける。

 宗教においてはラブホテルに税逃れをする程度の低い宗教法人はどんどん増え続けるのに、ほんもののそれはもう息もたえだえである。多くの宗教団体は金目当てのカルト教団に堕している。

 こんなようにして、今はもう何も残骸も残らぬ真の芸術の要素は「能」のなかにひっそり生きている。

歌舞伎は面白い、能はつまらない、そんな声を私もよく聞くが、現代人の心理を投影しやすいのは歌舞伎であるからそれは当たり前のことである。

 ほんとうは、歌舞伎も能のごとく、太古はこの3つの仮面劇のような儀式を持っていたろうが、今はたんなるリッチな奥様達の見せ物になっているというわけである。

 そして、現代日本においては、三島はこの3つの似非文学、似非演劇、似非芸術が手に手をとりあって仲良くしているのだ、と断定している。文学はなく「文学らしさ」はある。芸術はなく「芸術らしさ」はある。

 平和ボケ日本をまさにここまで、つっこんで分析しているエッセイをなかなか最近は見ない。昭和58年前後のエッセイなのだが、今読んでもまったく世の中は変わっていないことに驚かされる。

 

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