昨夜読んだ、渡辺昇一先生のこんな記述があり、おやっと思った。
山田朝右衛門吉亮の直話に、
「また昔から手前どもでは、幽霊が出るために夜通しで騒ぐという噂もありました。これはこうなんです。手前や弟子なぞでも人を斬って帰ってきますと、どういうものか、顔がボーッとのぼせて、大変な疲れを覚えます。
一口に血に酔う、とでも言うのでしょうか。
とにかく妙な気持ちです。
そんな時には、父から夜通しの酒盛りを許されるので若い弟子達は底を抜いて騒いだものです。これを世間の人が曲解して朝右衛門は怨霊に悩まされて眠れないため、ああして夜通しで騒いでいるのだと伝えたものでしょう」篠田鉱造「明治百話」
テレビでもよく首切りの場面はあるが、現代人はそれがほんとうの話であることをもう「感じる」ことができないのだ。
ただ美男子の俳優だ、とかあの女優はいいぞとか、「現代から見た」明治の視点しかもうもてないのである。
この渡辺さんの記事を読んでふと思い出したのは、以前にも記事にしたが、「マテオ・ファルコーネ」である。三島さんが絶賛したフランス文学の古典メリメの作品である。**リンク**
河合隼雄はこのことをこう記す。
ほんとうの母性とは、かりに子供が殺人罪を犯そうとも徹底的に守ろうとします。
それに対して、「いくらオレの子であろうと、悪い事をしたら必ず放り出すからな」というのが父性です。
河合隼雄
現代ではこのような「首切り」をしたあとに徹夜でその気持ちをふり払うとか、規律を破った子は殺す子殺しのテーマは、理解されない。特に、良くも悪くも女性が強くなった現代、女性原理はこのような時代をもう肌感覚で想像することはできないでしょうネ。
間違いかもしれせんが、私は女性は「命」を一番大切なものとして考え、男性は「魂」を一番大切なものとして考えるのではないかナアと、考えております。
それはどう違うの、と聞かれても困りますが、まあ、わかってもらえる人にわかってもらえればいいと思っております。
村上春樹の1984年のSFを1Q84年ともじった、たぶんSF的小説はすでに68万部予約があるそうでもうこれは社会現象になってますが、彼のイスラエルの表彰式の一言も影響しておりますね。
命も魂も、比較できるものではありませんから、彼が言っている「卵」を支持する気持ちも理解できますし、絶対的な宗教の中で「恨み」と「憎しみ」と「仇」のために全霊の「魂」を棄てて戦う人の気持ちもわかります。<いや、その場にいないから正確にはわからないのかもしれません>そんなところにもう、悪い国もいい国もないですヨ。
もう21世紀は、新しい道徳や思想が必要なのかもしれませんね。
キリスト教の限界なのかもしれません。