「荘子」 の言葉である。
タオイズムはヒンドゥー教や仏教と同じように、理性的な知識よりも、直感的な智慧に重点を置くのである。
理性的な思考は結局は無限界ではないし、相対的なものであり絶対的なものではない、ということでしょう。
我々は、宗教団体に入らなくても、キリストを別に知らなくても、聖書を読んだことがなくても、何か新聞で自己犠牲の記事や、
絶対的なものの匂いのするものに対してはほとんど動物的なカンにて涙し体の奥からの情感を溢れ出させることが誰しもが経験が
あるのではないだろうか。
これをコリン・ウィルソンは、「至高体験」と名付けている。彼は独特の世界を持っていてセックスの中にでも「それ」を見る。
お互いに抱き合いながら、もっと大きなものに抱かれ見られているような気持ち。
小林秀雄いわく、「桜を私が見ているのではない。桜に見られているような気持ちになるのだ」
絶対の追求・・・・
このタオイズムの陰と陽を、「自然界のすべての変化」をダイナミックな相互作用のあらわれとして見る、これはなんと、あの
三島由紀夫までが死ぬ直前まで、気にしていたことだ。
「春の雪」から続いている「天人五衰」にまでその影響を私は感じている。
何もむずかしいことではない、三島由紀夫が美輪明宏を口説き、川端康成が不眠症にてピル中毒になっていた、このような
ことは生きていることの複雑であり、彼らの作品を汚すことには100パーセントならない、むしろ、その雑多なエピソードのおかげで
彼らの作品は更に、純血さと昇華のレベルが保証されるということでしょう。
こことあそこ、それとあれ、一つの物事には必ず裏があり、裏と表が回転することがよく私たちが経験則として「感じて」いることでしょう。
「こころ」は「ころころ」変わるから「こころ」と言うのだし。
相対立するものの、絶対的な一体性。
うーん。
縮めるためには、まず張らねばならない。
弱めるためには、まず強めねばならない
廃するには、まず興さねばならない
奪うには、まず与えねばならない
これを微明という。 「老子」
注=微明 英語で調べるとsubtle wisdom というところか・・・