どうするか迷った時、やめておくか、やってみるか。
選択の結末はその未来まで知ることはできない。ならば、やらない後悔よりも、やった後悔の方がマシだと僕も思う。若い頃とは違って。
たとえすべての記憶を失ったとしても、キミのことだけは忘れないでいると思う。僕はきっとまたキミを好きになるだろうし、そもそもキミというかけがえのない存在によれば、僕の失われてしまったすべてのものはそれまで以上に補われていくことだろう。キミさえいれば。それはさしずめ、何度聴いてもその他の部分についてはうまく思い出すことができずにいながら、サビの部分だけは軽やかに口ずさむことができるクラプトンの歌のようであり、左から三番目に描かれたのはユダであるが、それ以外の人物の順はもちろん、そもそも誰が描かれていたかもあやふやなダヴィンチの名画、最後の晩餐のようであるはずだ。




僕にはかつて自慢の彼女がいた。どれだけ時間が経過してもあまり変わり映えはしないと言えばそうだが、初めて会う人間に対してはまるで上手くコミュニケーションを取ることができない僕とは違い、彼女は誰とでも気持ちの良い挨拶を交わせる人であった。それは僕にとっても例外ではなく、僕が彼女と初めて出会った時もそうであった。目を合わせることすらままならなかった僕に、あたかも以前から知り合いであり、単に顔を忘れてしまうくらいに久しい再会となってしまっただけなのだと思わせるほど心地の良い会話があった。そのようにして彼女の魅力に救われながら、僕たちは二人の距離を瞬く間に縮めていった。


街がすっかり眠りについた頃、月の生み出す青い光と、彼女の語る彼女の家族についての話だけが目を覚ましたままであった。僕は美しい彼女の横顔を右側に感じながら、彼女の家族についての話に耳を澄ましていた。


「3つ下の妹がいるの。家族みんな仲が良くて」


お好み焼き屋に行った時のこと。彼女が育てるようにしてじっくり焼いているお好み焼きは、決まっていつも父親に連れ去られてしまうだとか、妹は絶対に何も手伝わないが、焼き加減を決めるタイミングだけは見事だとか、そういう話だ。何が原因だったか正確に思い出すことができないくらいにどうでもいい理由で両親と疎遠状態にある僕にとって彼女と彼女の家族の話を聞くことは、僕の失ってしまった家族の温もりとやらをその度に取り戻せるようで好きであった。


しかし僕は彼女と別れてしまった。それは事実として僕のわがままが原因であり、何もかも僕が悪かった。僕は彼女について多くのことを知り、その上で彼女によって十分過ぎるくらいに満たされていた。結論から言えば、結婚を意識したこともあった。ずっと一緒にいたいとその時まで迷っていた。僕の身勝手だった。


あれからそれなりの時間が経ち、僕は彼女とは別の人と結婚をした。仕事もまずまず順調と言っていいだろう。欲しかったタイプの車も買ったし、少し持て余すくらいに大きな液晶テレビも備えた。豊かとは縁遠い平凡な暮らしだけれど、平凡ゆえに何不自由ない生活を送ることはできている。


けれど、僕の心にはぽっかりと穴が空いている。そんなありふれた表現がとてもしっくりくる。心に空洞ができていて、満たされない何かを感じ、何かに救いを求めている。


「あなたが後悔するくらいにいい女になるから」


別れ話の結論として彼女はそう言った。あの頃と同じように、けれどきっと彼女のその言葉通りに、彼女は今の僕にとっても変わらずに存在し続けている。




ずっと前、あるいはごく最近。どう表現すればあの頃から流れた時間をより的確に表すことになるだろうか。ただ、それが過去であるということだけははっきりしている。そう、それは既に過去になってしまったのだ。

少佐は鏡の中の右腕を愛おしそうにして撫でながら言った。

「肉体なんてものは魂の宿る器に過ぎないのだよ」

少佐の煙草の味わい方は独特だった。きっかり10本を入れたマルボーロのソフトケースを左手でひょいと振ると、不思議なことに煙草は必ずちょうど少佐が咥えやすい位置に1本だけ取り出された。ソフトケースから1本だけがちょうど3cm分頭を出す。いつもそうだ。前に少佐の動作を真似してやってみたが、僕がやると煙草が出てこなかったり、あるいは3本くらい出てきたりして、1本の煙草を吸うためには余計な動作が必ず伴った。少佐はそうして煙草を咥えると、やはり左手で磨き込まれたオイルジッポーに火をつけ、煙草に火を移した。ふかすのは二度だ。必ず二度。そして火を消すまでに10度味わう。必ず10度。
今日も左手でマルボーロのソフトケースをひょいと振り、煙草をきっかり1本だけ取り出してオイルジッポーに火をつけ、二度煙草をふかした後、9度目の煙を吐き出した後に少佐は続けて言った。

「私がどうしていつも同じように煙草を吸うか分かるかね。君は私の動作の一つ一つを数えながら関心を持っているようだが」

僕は関心を認め、分かりません、と答えた。実際、彼の独特な動作に理由があるかどうかなんて考えたこともなかった。
少佐は10度目の煙を肺いっぱいに溜め込み、満足そうにそれを吐き出してから言った。

「習慣だよ。初めは私も意識してはいなかったんだが、ある時にいつも同じ動作をしていることを意識して以来、こうしないと気持ちが落ち着かなくてね。歩き出す時にも踏み出しやすい利き足があるだろう。それを逆にすると気持ちが悪い。歯磨きをいつもと反対の手で行うと居心地が悪い。そんなところだ」

僕は分かりますと答えた。確かにそういうことに心当たりがあった。

「そして習慣は人生を支配する。人生においてなくてはならない存在となる。それが失われると一日は始まらず、一日は終わらず、人生に喪失感すら感じられる。いつも決まったようにあるべきときにあるべきように存在し、あるべき場所に留まるものが習慣だ。しかし我々はそういう習慣がどれだけ尊いものか正しく認識しない。煙草が切れて苛立ちを覚えて初めて煙草を切らさぬようにと思うし、いつもと違った動作では美味いはずの煙草の味がまるで変わってしまったようにも感じられるから、やはりいつもと同じように煙草に火をつけるのだ」

少佐は鏡の中から右腕を取り戻し、左手で右腕のあるべき位置をさすった。

「右腕があることなんて当たり前だったがね。こうして失ってみると、失ってからどれだけの時間が経過しようとありがたみを忘れることはないと分かる。失われても右腕は私の中に存在し続け、時には痛みを感じるし、痒みも覚える。まるで今でも存在するように私の精神の中では右腕が動きもする。だが、それらを感じたところで残された左手をどう伸ばしても、もはや右腕に触れることはできないのだ」


ずっと前、あるいはごく最近。どう表現すればあの頃から流れた時間をより的確に表すことになるだろうか。ただ、それが過去であるということだけははっきりしている。そう、それは既に過去になってしまったのだ。僕は思い出の中のキミに手を伸ばしたが、この手は空を切り、キミに触れることはできなかった。

車を走らせてもう一時間くらいになるだろうか。一時間という時間は長くもあり短くもあった。僕はここ数ヶ月のうちにすっかり見知ったルートMを熱砂を吹き抜けるギブリのように通り抜けた。キミに会いに。

二年前に手に入れた中古の国産車との付き合いは僕の一目惚れで始まった。大学生の本業であるべき勉学そっちのけでせっせとアルバイトに精を出し、安アパートとはいえその半年分の家賃分をはたいてようやく手に入れた車には一入の愛着も生じた。乗り始めて一年以上の時間が経過した頃に気付いたのだが、僕の車にはクラクションが備わっておらず、車体下の泥よけも粗末なやり方で何とか車体にくくりつけられており、海へ行った帰りの道で泥よけを引きずりながら走ることになって初めて気付いたあり様だった。それでも、我が愛車、僕の車だった。

「でも、私は好きよ。なんだかかわいいもの」

店を出ようと駐車場から車を出した時だった。目の前から真っ黒なピックアップトラックの外車がバックしてきたから、僕は慌ててクラクションスイッチに手をやった。しかし、幾つかの角度からスイッチを押しても、クラクションの音は一度も鳴らなかった。


カシャン。


外車には傷ひとつついていないようだったが、僕の国産車の右のフロントライトはフルラウンドを戦い抜いたボクサーの目へと変わってしまった。そんな情けない格好になっても、キミはこの車を好きだと言った。僕も好きだった。ボロボロでも、僕の車だ。


ケーキを見てかわいいという子がいる。彼女によれば世の中には2種類のものが存在する。ケーキはそのうちのかわいい種類のもののようだ。片目のつぶれたこの国産車は彼女の篩に掛けられればどちらの種類に分類されるのだろうか。


あゆみは僕よりも2つ年上で、地元の短大を卒業した後は幾つかのアルバイトをしながら自らの夢を追いかけている人であった。彼女の夢の話を聞くたびに僕は僕の生き方に自問自答をした。周囲の大多数と等しく高校へ進学し、そう多くはない選択肢の中からそう決定的な理由を見出すこともなく大学を選び、そうして何となく大学生をしていた僕にとって、彼女のような夢追い人は憧れであった。僕はその頃、自分の将来に不安していた。僕という人間の強みは何であるか、適性は何であるか、何を以て僕と言う人間は社会に認められることができ、そしてそもそも僕は何をしたいのか。そういう得体の知れない不安があった。僕は僕自身という存在についてあまりにも知らな過ぎるとも思えた。