僕がポケモンで好きな部分と理由 | 天風呂(アメブロ)

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風呂上(ふろがみ)リョウ様 といいます。気軽に呼び捨てでリョウサマと呼んでください。

8年ぐらい前にポケモン好きな人とポケモンの話してて
その人はバトルへのこだわりとかを語ってたけど
僕は別にバトルそんなに好きではない、と言ったら
じゃあどの辺が好きなのかと。


僕のポケモンに関しての要望や好きな所で
同じこと言ってる人って見たことなくて。
僕の嗜好はかなりマイナーな部類な所もあるかもしれない。

僕が好きな特徴としてはまず
・この世界観特有の要素が一般的とされている世界観
・主人公が無名の一般人
であるという部分を挙げる。


この世界観の特徴となるもの、現実と違う部分が
その世界では当然のこととして流通している、ということ。
ゲーム冒頭でも語られるように
「この世界ではポケモンという
 不思議な生き物が住んでいて
 人とポケモンは共存していて、
 勝負に使ったりしている」と。


その世界ではそれ(バトルなど)が
当たり前、日常的である、ということ。
条件として同じ例を挙げれば
メダロット、ロックマンエグゼ等。


モンスターの存在やバトルに関して
「一般的には認知されているが
 それを行うのは少数」であるのは
ドラクエ、モンハンなど。


逆に
「日常に対して特殊なものが介入する」
「事情を知る一部の者だけが戦う」例が
流星のロックマン、妖怪ウォッチ等。


そして、主人公が特に特徴を持たない一般市民であること。
(後に世界に影響をもたらすほどの
 大きな活躍することは別として)

僕は基本的にロールプレイングゲーム、もとい
やり込み、カスタマイズ系のゲームじゃ
主人公=自分 であってほしいので。
とりわけ設定の無い無口な人物であることを望む。
(その辺 ルビー・サファイアでは
 重要な人物(ジムリーダー)が血縁関係に居るという
 設定が付加されているから
 正直 若干だけど好ましくない。)


性格、背景、経歴、などの設定が
描かれていない部分があるからこそ
プレイヤーが好きに想像できる。


主人公が何らかの子孫であったりするドラクエとか
デフォルト名が決まってたり ゲーム中普通に喋る
メダロット、妖怪ウォッチとかの主人公は
普通に会話をするし 人物像も決まってる。
あれは物語の主人公に名前を好きに割り当てられるだけであって
自分の分身、とは言い難い。
ロックマンエグゼなんか主人公の名前は固定だし。
光熱斗という人物を操作しているに過ぎない。
(念のため言っておくけど 批判ではない)
まぁ、気にしない人にとっては気にならないんだろうけど
僕はこだわってる。
 条件が同じもので好きなのはモンハン、どぶ森。


で、
主人公が何らかの特殊な力を
与えられたり、目覚めたり、じゃなく
ポケモンを連れて旅に出たりバトルしたり、という。
その世界ではあくまで当然のこととして経験していく過程、
その枠の中で 自分の好きなように積み重ねていく、みたいな。


あと 他人(の世界)との互換性というか。
主人公の行うことがあくまで一般的である故に
他の人の世界との矛盾が(あまり)発生しない。


まぁ仮に プレイヤーA、Bが居たとして。
例えば物語の中で世界が破滅する系のゲームなら
Aがゲームデータの中でその世界を救ったなら
Bのデータの中の世界も救われてないとおかしい、みたいな。
ここで矛盾が発生し それぞれが
違う世界であるということが浮き彫りになる。
(ゲームだから と言えば元も子もないが)


でもポケモンの場合 例えば中ボスのジムリーダーなんかは
「チャレンジャーの挑戦を受けて勝負する職種」であって。
色んなトレーナーが何度も勝負を挑めて当然。
だから
「Aがボスを倒したのに
 Bの目前には同じボスが立ちはだかっている」という
世界観的な矛盾を解決してる。

まぁ、世界観的な矛盾(進行度合いで変化する要素)は
探せばどうしても見つけてしまうけど。
(ロケット団の解散の前、後の違いとか
 世界に一匹だけであるはずのポケモンが複数存在できるとか)
まぁ、ある程度は・・・ってことで。


世界を救ったりする類なら その人物の名が
世間で語り継がれてないとおかしい。
まぁしかし 主人公が行ってるのは
基本的に一般的なことだから
その人物の名前が語られてなくて当たり前、っていう。
(一応金銀では前作主人公の「レッド」が居るが)


主人公が無名な一般人であるから
通信対戦なんかをやる時 主人公同士で戦うわけだが
それぞれは同一人物同士ではなく、
とあるトレーナー同士の戦いである、ということ。


その世界における頂点や 重要な歴史が決定する流れ、
それに関与した人物達の活躍を描いた作品。
例えばスターウォーズ、うえきの法則、金色のガッシュ!
必要な役割を持った人物達によって物語が完成していて、
新規の人物(自分の分身やオリジナルキャラクター)が
本来 介入する余地がない。
(まぁそれでも 二次創作でそれをやる人はよく見るけど。
 本編の物語にオリキャラを介入させて改変したり)
ましてや ゲームなら(天城イッキや天野ケータ、光熱斗など)
主人公の立ち位置として読み手は立つが
漫画、映画での読み手はあくまで傍観者。
ポケモンなら オリジナル要素を介入させても
基本的に本編との矛盾は発生しない。


ガッシュやうえきなら
「そのルールの中で最終的に優勝する人物」も決まってるし
劇中全ての人員が描かれてないとはいえ、参加者の上限が決まってる。
(たとえばガッシュなら 戦ってる魔物は全部で100体など)
ホビー漫画ではよく このキャラ、マシンは
この人物のパートナー、みたいに決まってる所がある。
(メタビーはイッキのパートナー、
 ミニ四駆とか このマシンはこのキャラのもの、みたいな)
例えばピカチュウとか あくまで生物の種類だから。
サトシなど アニメや漫画の主人公以外に
ピカチュウを持ってる人がいくらいても不思議ではない。

新規を取り込める それほどにポケモンの世界は広大。


んでそれらが何を意味するかって言うと。

ポケモンの映画では冒頭で
野生ポケモンの群れと広大な舞台を映しながらの
世界観の説明が行われるけど。
「この世界にはたくさんのポケモンが住んでいて・・・」と。
あれ好きなんですわ。


自分(の持ってるカセットの中の主人公)も
この世界のどこかに存在して生活してる、みたいな。
テレビの画面の中には写らないし
サトシ達なんかとは出会うことは決して無いけど
同じ世界のどこかを冒険してるはず、っていう。
そういうロマン。


前に
「ポケモンという共通の概念を主軸にどのような世界を描くか」
って書いたけど。
まぁ、僕がポケモン好きな理由として大きいのはそういう部分。

次あたりにはそんな僕の嗜好の上での
要望とか不満とかも書いていく。




↑先月発売された初代ポケモンは青を買いました。

金、銀、クリスタルにも期待。