[概要]
1299年(オー、スマンと言いにくく) オスマンベイがガーズィーを率いて独立。 V.S. ビザンツ帝国
1389 (十三でこっそりゲボ吐く)コソボの戦い ムラト1世のオスマン帝国軍が、セルビアのコソヴォで、セルビア・ボスニア・ブルガリア・ハンガリーなどのキリスト教連合軍を破った戦い。バルカン半島は長いオスマン帝国による支配下におかれることとなった

1396(二個ポリス、銃下げる)バヤジット1世がハンガリーなどキリスト教連合軍を破った戦い。バルカン半島に進出した。
1402 (どれも医師鬼 : 永楽帝即位、フス宗教改革、アンカラの戦い)ティムールがオスマン帝国軍を破った戦い。オスマン帝国の進めていたバルカン侵攻が一時停滞した。
1453 百年戦争終結・ビザンツ帝国滅亡 メフメト2世がイェニチェリを整えビザンツ帝国を滅ぼした。
1517 マムルーク朝滅ぼす
1529(ウィンナー1000個肉)第一次ウィーン包囲 スレイマン一世時
ヨーロッパキリスト教世界に大きな脅威を与え、ルネサンス・宗教改革・大航海時代の世界史的背景となった。
1683(2個ウィンナー、いる野菜?) 第二次ウィーン包囲 #失敗
1699 カルロヴィッツ条約 ハンガリー放棄)→オーストリアに割譲
1821 ギリシア独立戦争
”オスマン帝国からのギリシアの独立をめざす戦争で、ウィーン体制下でヨーロッパ諸国が支援したが、同時に体制の動揺につながった。27年のナヴァリノ海戦を経て1830年にギリシア王国として独立した ... ギリシア独立運動を巡る国際社会は必ずしも独立戦争にとって好都合ではなかった。ウィーン体制のもとで、オーストリアのメッテルニヒは自由主義・民族主義の高揚に危機を感じ、独立に反対、神聖同盟も独立に反対を表明した。オスマン帝国はエジプトのムハンマド=アリーの支援をうけて独立運動を抑えにかかり、アテネを占領し、独立軍は苦戦となった ... ロシアのニコライ1世が南下政策によるギリシア援助を始めると、イギリス・フランスも東洋進出を狙って支援を強化、ここに露英仏の三国による共同軍事行動が行われることとなり、1827年、ナヴァリノの海戦となった。 ※注意 第一次世界大戦後、敗戦によって混乱したオスマン帝国に対し、ギリシアが領土拡張を図って侵攻したために起こった戦争はギリシア=トルコ戦争という。混同しないこと。”

イスラム教回帰の流れの中でワッハーブ王国成立 ( mid 18c)
ナポレオン征服後のエジプトの混乱に乗じてオスマン帝国軍のムハンマドアリーがエジプト総督に→ムハンマドアリー朝
軍の整備につとめ、ギリシア独立運動の際にオスマン帝国を援助したがその代償はクレタ島のみ。エジプトトルコ戦争が勃発した。
近代化を進めたエジプト。スエズ運河を建設。また外国支配に対抗する愛国心によりウラービーの反乱が起こった。
ウラービー運動のスローガン「エジプト人のためのエジプト」はエジプト民族運動の原点になった。
アブデュルメジト1世によるタンジマート
ギュルハネ勅令 (1839)
→制度上は伝統的なイスラーム国家から近代的な法治国家へと変容した。また、市場の外国商人の開放により国内産業は次第に衰退、外国資本への従属が進行した。
1853 クリミア戦争
→国家破産
1876 ミドハト憲法 アブデュルハミト2世
宗教に関わらない平等、議会の設置
→ロシアトルコ戦争を口実に議会の閉鎖と憲法の停止。青年トルコ人革命で復活。
1878 (ベルリン条約、嫌なやつ)ベルリン条約でバルカン半島の領土が大幅に縮小

"合成数"の処理 あるn (nは自然数 , 素数を除く) という条件が与えられたら ( 見えたら )
n = pq ( p , q : 自然数 ) のようにおいて処理する
参考: 東工大 2016 大問4 / 分野別 標準問題精講 38,39
オスマン帝国 : イギリスがムハンマドアリー朝を保護国化。のちにイギリスとフランスの経済的支配。
インド : イギリス東インド会社による植民地化
清朝 : 白蓮教徒の乱の混乱後、アヘン戦争とアロー戦争で結果列強との不平等条約。開港や自由貿易で列強の経済面での支配。
東南アジア : オランダ領ジャワ・フランス領インドシナ連邦など植民地化
→各国の抵抗
インド:シパーヒーの大反乱
エジプト:ウラービー運動
アフガニスタン:アフガン戦争
→西洋化
タンジマート, 洋務運動
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参考 : §12 詳説世界史研究 ,